■「ひまわり」になった「ひまわりになったら」
 私が何を言いたいかと言うと、歌詞自体はずっと変わっていない。歌詞だけでなく、あくまで一つの曲としても、作品としては変わらないはずだ。しかしライブなどで歌われていき、そしてリスナー各々のもとで聴かれていく曲であるこの「ひまわりになったら」は、それらを受けて「変化」したり「成長」したりする。それはaikoの歌い方だったり、アレンジの変化(たとえばインディーズ版からのセルフカバー、ライブバージョンなど)だったり、あるいはライブの演出やライブの中での予期せぬ事態によって、である。勿論、聴く側であるリスナーのそれぞれの人生・恋愛で起きる出来事なども、曲の印象を変えていく大きな要因である。
 これはやはり、歌と言う芸術が、ただ単に歌詞だけを読んでいるだけでは実現出来ない「生の芸術」だからこそだ。私は小説を書く者だが、小説を始めとする文学は基本的には閉じた芸術なので、こうやって変化を見せていく生の芸術は非常に羨ましく思ったりする。
 予期せぬ事態、と言うと、DVDの「Love Like Pop add.」はLove Like Pop Vol.8の追加公演が収録されているが、その中の「女の子はいつも切ないメドレー」では「ひまわりになったら」が歌われる(ボサノバ風なアレンジでめっちゃいい、ストリングスも入っててほんと好き)1999年に開催されたLove Like Pop Vol.3から実に五年ぶりの披露になったのだが、aikoはサビ頭から感極まって泣いてしまい、サビ前半をほとんど歌えなくなってしまう。
 何故aikoが涙したのか。それは映像にも映されているが、ひまわりの造花を振ってくれているファンの子達を見たからである。冒頭で書いたが、aikoのライブでは「ひまわりになったらが歌われたらひまわりの造花を振る」と言うお約束があった。いつか「ひまわりになったら」が歌われる時の為にひまわりを用意していたファンの子達の期待、それだけ「ひまわりになったら」が長く愛されていること、大切にされていることを、ライブと言う感情が最高に高まっている時にぶつけられたのだ。感極まって涙が溢れ、歌い損ねてしまうのも無理はなかったと言えよう。
 2004年当時、既に初出から6年が経過している。新しい曲、新しいファンが沢山出来た中で、aikoの最古曲の一つでもあるこの曲が確かなものとして愛されていた。このライブでの一幕はある意味、「ひまわりになったら」と言う曲が私達にとっての「ひまわり」になれている証左であったように思う。「ひまわりになったら」を再び世に出すきっかけが何だったのかは私の調査不足であるが、このライブでの出来事が理由の一つだったら素晴らしいことだな……とつくづく思うのである。


■ひまわりは動かない
 と、だらだら書き連ねてきたが、そろそろ着地点へ向かおうと思う。
 aikoはインタビューでひまわりのことを「太陽が沈むとすぐにシュンってなっちゃう」「好きな人を一生懸命探してその方向を向いて、咲いているイメージ」と言っていたが、私はふと思った。「実際ヒマワリって本当に太陽に向かって咲いてるのか? ぐるぐる動くのか? てかそんな一斉にシュンって垂れてる? 夕方に萎むアサガオならわかるけど」と。
 とりあえずさくっとWikipediaを開いてみたのだが、そこに書かれていたヒマワリの生態に私は驚愕してしまった。こいつはひょっとして「ひまわりになったら」のTrueエンドに行きついてしまったのでは!? とばかりに興奮したのである。aikoには是非ヒマワリについての知識をアップデートしてもらいたく思う。
 Wikipediaの「特徴」の項目によると「実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけである」とのことだ。

「若いヒマワリの茎の上部の葉は太陽に正対になるように動き、朝には東を向いていたのが夕方には西を向く。日没後はまもなく起きあがり、夜明け前にはふたたび東に向く」
「この運動はつぼみを付ける頃まで続くが、つぼみが大きくなり花が開く頃には生長が止まるため動かなくなる」
「その過程で日中の西への動きがだんだん小さくなるにもかかわらず夜間に東へ戻る動きは変わらないため、完全に開いた花は基本的に東を向いたままほとんど動かない」(Wikipedia・ヒマワリより抜粋)

 花が開く頃には生長が止まるため動かなくなる。完全に開いた花は基本的に東を向いたままほとんど動かない──つまり見た目からして立派に開花した時、そこに凛々しく立って動かず、首をしゅんと下げることもなく、一本のひまわりとして存在することが出来る。悲しみに暮れることなく、虚しさに引き裂かれることもなく。
 これぞまさしく「ひまわりになったら」の後、「ひまわりになった」姿ではなかろうか。つまりは、曲中であの子を想って追いかけてばかり、そして沈んでばかりのあたしは──あるいはあの子も──やはりまだ蕾のままの、生長途中のひまわりなのである。あたしはやっぱり、ひまわりになれていない。だからこそ「ひまわりになったら」と言うタイトルなのだ。
 あたしはまだ、成熟していない。だから太陽が沈めばショボンと俯く蕾のひまわりだ。しかし時が経ち成熟した時には太陽がなくてもそのまま立派に咲いていられる。本当のひまわりになったら、あたしはあの子の不在に沈むことなく生きていける。──いや、あたしの中に「ひまわり」としてのあの子の存在を感じられるからこそ、生きていけるのだ。
 そしてその姿が、いつか誰かの──願わくば「あの子」の「太陽」になれたらいい。いや、なりたい。「なったら」にはその願いもある。インタビューでaikoが「その人にとってかけがえのない太陽にもなりたい」と述べている通りである。
 以上述べたことが、今回の一応の着地点である。aikoはこのヒマワリの特徴を知っていたかどうか。おそらくきちんとわかっていない状態でこの歌詞を書いたと思われるから、これは奇跡の一致と言ってもいいのではないだろうか。こんな偶然が生み出されてしまうくらいなのだから、やはり「ひまわりになったら」に敵う曲はそうそう無い。少なくとも「初期にして最高傑作」はaikoファン全員一致の解釈をお願いしたいところである──なんてそんなの、今更の話過ぎる。どうぞ笑っていただきたい。


■いつかひまわりのあたし達
 本稿もまとめに入ろう。これ以上書いても仕方がないくらい「ひまわりになったら」と言う作品は名作であり、なおかつ語るところが尽きない。aikoのあらゆる全てにおいて頂点に立つ曲だとわりと本気で思っている。
 この曲にインスパイアされてイラストを描いたり、小説を書いたり、あるいは別の音楽を作ったりと、二次創作すら出来そうな気がする。あたしとあの子には聴く人それぞれにオリジナルの背景や設定を妄想出来そうだ。下手すれば「一番ストーリーを想像しやすいaiko曲」かも知れない。「ひまわりになったら」と言う小説、どこかにあるのではないだろうか。集英社文庫の夏の百冊辺りにしれっと紛れ込んでいてもおかしくない。勿論ひまわり畑背景、白いセーラー服の女の子二人の表紙で!──失礼、妄想がはじけ過ぎた。
 おそらくはaikoの実体験──実際の失恋から生まれた曲であるのだが、史実(と言うと硬いが)があるにも関わらず、道を一本に絞らせず、リスナーによっていろんな読み、ストーリーを可能にさせているのは、やはりこれも奇跡のようで実に素晴らしいと思う。このフレキシブルな点も「ひまわりになったら」の強みなのだろう。
 昨年のLove Like Pop Vol.21の「ひまわりになったら」の歌唱は演出も含めて本当に最高のものを見れたと思っている。かなり古い映像も含めた、aikoの二十周年を振り返るような形のメモリアルムービー。あまりにも、あまりにもエモ過ぎて、「大阪城ホールが私の墓」と遺言してしまったくらいだ。幸い「My 2 DECADES 2」にて映像化されているので是非ご覧いただきたい。TOP40の頃から追いかけている最古参aikoファンがあの「ひまわりになったら」を食らったら(そしてそんな人が絶対に多い大阪公演がツアー初日だったわけである)と思うと……いやマジで本気でエモ死しているのではないだろうか。
 そんなエモな文脈にありながら昨年発売された「aikoの詩。」Disc4のカップリング集に選ばれていなかったので私は酷く落胆したのであるが(aikoも苦渋の決断のうえ選曲していたのはわかっているけれども)今年めでたく各種サブスクリプションサービスにてaikoの曲が解禁されたので、積極的にaiko初期にして最高傑作の「ひまわりになったら」を広めていきたい所存である。
 1996年、MUSIC QUEST JAPAN FINALで歌われたことで初めて世に出された「ひまわりになったら」。ラジオでのオンエア、インディーズでの音源化、ライブでの歌唱を経てようやくメジャーでの再発表となり、その再発売からも既に12年の歳月が流れてしまった。1998年から数えれば22年にもなる。そしてそれはちょうど、aikoのメジャーデビューから数えての年数にもなる。そう考えると「ひまわりになったら」はaiko史で言えば古典にすらなっている風格も感じられる。
 最初に「ひまわりになったら」を聴いたのがいつだったのか、それこそリスナーによって様々だ。「あたし」のようにまだ蕾でしかない少年少女の頃だったかも知れない。そんな蕾の頃をとっくに過ぎて、人生が枯れ始める頃だったかも知れない。どんな時でも曲の中の「あたし」と「あの子」は切ない物語の中にいて、「あたし」は涙と虚しさと寂しさに沈んでいる。それでも、「あたし」は少しずつ「あの子」から離れていき、一人で凛と立ち咲き誇る「ひまわり」へと──あの子にとっての「ひまわり」になれるように、成長していくことを望む。言ってみれば私達は「あたし」と言う長い物語、そのプロローグに過ぎない序章を聴いていると言えよう。
 いつかひまわりになる。ずっとずっとひまわりでいる。最初は強がりに過ぎなかったかも知れない想いはやがて恋愛を越えて、ひとつの人間の生き方としても響いていくことだろう。いつか私も誰かにとっての「ひまわり」になれたらと、そう思う。
 そもそもこう歌うaikoこそが、多くの人にとっての「ひまわり」であると私は信じて疑わない。これからもaikoが沢山の人にとっての「ひまわり」になっていけるように、そしてまた「ひまわりになったら」をどこかのライブで歌ってくれるようにと願いながら、この長い長い「ひまわりになったら」語りを終えたいと思う。いつも以上に乱文乱筆になってしまったが、ここまで読んでくれた方に少しでも何か響くものがあったら幸いである。

(了)



back

歌詞研究トップへモドル