あまのじゃくのためらい -aiko「バスタブ」読解-



■バスタブについて
「バスタブ」は、aikoもお気に入りにしてファン人気もぶっちぎりで高い名曲「えりあし」、のカップリングに収録されている小品である。一番二番だけの構成で短く、ライブでの演奏回数もLLP8の一回だけなので目立たない曲ではあろうが、個人的には結構好きな曲である。というのも七月にaikoの電話の出てくる曲について研究したのだが、このバスタブは一番の締めに「すぐ電話して謝ろう」という印象的なフレーズがあるからだったり、「女の子同士の曲で、友達と喧嘩してしまって、謝りたくて……と言う状況設定だったらいいな~」と言う超個人的な願望が投影されてしまっているからという、これと言ってaikoに何一つ根拠のない理由だが、今回は密かにお気に入りのこの小品を読解していきたい。

■電話でのケンカと言う裏設定
 定石通りaikobonのライナーノーツに従って道を進めて行きたいところなのだが、aikobonライナーノーツの多くの曲がそうなのだがこのバスタブもその一つで、歌詞に関することは大分大味で述べている。「電話してケンカして「はあ~~っ」て落ち込んでお風呂入って、バスタブの中で考えて「あ、やっぱ謝ろう」って、思う歌ですね」と、手がかりらしい手がかりはこの文章のみだ。この後歌詞における電話についてのaikoの意見があるのだが、そちらは前期に引用したのでそちらを参考にしてもらいたい。
「何だよこんだけかよ」とちょっと不満だったのだが、これはこれでリスナーに想像の幅を与えているのだと好意的に捉えることとする。それでもaikoの言なので大事にせねばともう一度読んでみたらうん? と思うところがあった。それは「電話してケンカして」と言う部分だ。なんと。このバスタブでのあたしとあなたのケンカは電話でのケンカだったのか! これは電話曲研究が早速役に立つ時が来たではないか。
 電話は相手との対面の会話ではない故に声だけの、相手とだけの会話という点に恋愛上でも友情上でも特別感を与えてくれるが、それがそのまま裏返って、かえって二人の関係を悪化させるものにもなり得てしまう。対面で話していれば喧嘩にならなかったものが電話だとどうしてか喧嘩になってしまった、と言うことだって普通にあるだろうし、バスタブの二人がまさにそれなのかも知れない。会って話しているなら「あまのじゃく」をセーブする気持ちが自然と出ただろうし、そうでなかったから「あまのじゃく」が顔を出したのでは? と私は考えるのである。

■あまのじゃく
 ところでこの曲の肝の一つである「あまのじゃく」とは何か、改めて辞書を引いてみた。広辞苑によると「わざと人の言に逆らって片意地を通す者」のことであり、日常生活においてもマイナスイメージの塊な名詞である。バスタブのあたしは自らをそのような「あまのじゃく」で、かつ「すまない」と歌っている。曲を聴けば自明のことだが、あまのじゃくな自分が相手を傷つけたのである。ただバスタブの文脈上、あたしが普段からずっと「あまのじゃく」である感じはあまりしない。あくまでも「あなたを傷つけた」時の自分がまさしく「あまのじゃく」であったのだと推測出来る。これから歌詞を読んでいくが、おそらくちょっとしたことがつまらない言い争いか何かになってしまい、あたしはこの時自分の意見を曲げずにいた――つまり「あまのじゃく」になってしまった者だから、思わず相手を傷つけてしまった模様だ。そしてあたしは、そんな自分を深く反省し、むしろあたしの方がそのことに深く落ち込んでしまっているようだ。

■まだ大丈夫
 一番Aメロを読んでいこう。「くるくるとペンを回して 間違った文字を消してく様に/思わずあなたを傷つけた言葉を消せればいいのに」としょっぱなからあたしは後悔により落ち込んでいる。間違った文字を消すなら消しゴムでもいいのでは? と思ったが、ここではあえてペンである。文字の上からぐりぐり線を重ねて見えなくする感じなのであろうが、消しゴムでもないペンに対し「出てしまった言葉は消せない」と暗に示しているようなイメージを私は何となく感じている。それだけ、自分の過ちに対しあたしは深く落ち込んでいるのだ。
 何せあたしにとってあなたは、「これ以上ないピンチには 必ずこの体をかけて/挑むつもりと決めてたのに」と思う程の存在なのだ。それが何の因果か、「あなたを悲しませた」と他でもないあたし自身があなたを傷つけることになってしまったのである。これは相当ショッキングな出来事である。お風呂でリラックスなんて状況ではない。きっと自分のしてしまったことに落ち込むと言うより、「飛行機」ではないが「何がどうしたの?」な状態で呆然としているに違いない。喧嘩の真相は明らかになっていないが、ついあまのじゃくになって片意地を通してしまう、つまらない、くだらない喧嘩だったのだろう。そんなことからこうなってしまったのだ。原因が些細であればあるほど、何でこうなってしまったんだと深く落ち込むのは想像に難くない。
 そんな状態でも流れ出るものはある。「あまのじゃくで済まないわ 涙が水を濁すよ」と。きっとさめざめ泣いていることだろう。「あまのじゃく」と称する自分の愚かな過ちを心から悔いているのだ。だがまだ二人の関係は、他の絶望的な曲達と比べればまだまだ壊れていない。「バスタブから上がったらすぐ電話して謝ろう」と思えるのも仲直り出来ると信じているからこそだと思うし、こうやって前向きに浮上出来るところに救われるのは私だけではないと思いたい。

■無意識の海に浮かぶひと
 さめざめ泣いていると先に書いたが「散々泣いていいのなら 沢山作るよ水たまり」とあって、泣きたい気持ちはあるものの敢えてセーブしているあたしの姿が伺える。我慢しているというよりその権利がないのだろう。「思わずあなたを傷付けた自分自身に傷付いた」と続くし、一番では「これ以上ないピンチには 必ずこの体をかけて/挑むつもりと決めてたのにあなたを悲しませた」と書いていた。自分が悪いからこそ自分が被害者であるなどとは言えないし、悲しみに涙を全開放出来るわけもない。泣いている理由だって、あなたと喧嘩して関係を怪しくさせた、ということよりも「あなたを傷付け」てしまった「自分自身」のふがいなさとその失望の方がよほど濃い。何が、「必ずこの体をかけて」なのだ! とついには憎らしく感じてしまっているかも知れない。
 涙で頬をしとしとと濡らし、ぐったりとした気分であたしはもしかしたら眠気を感じていたのだろうか、「もう少ししたら落ちるよ 夢と火曜日の境目で」とある。入浴中に眠るのは危険だ、という思いが先行してしまって私的にここでは既にバスタブから上がってあたしは眠ろうとしているのだ、と最初に聴いた時からかれこれ十年以上思ってきたのだが、ずっと入浴していると考えた方が歌詞上不自然ではない。
 ところで「夢と火曜日の境目で」とはすごく好きな表現だ。使いたいと思っていてもなかなか使えない。というどうでもいいことはさておき、眠りへと誘われる僅かな瞬間、人は意識の上に置いてあったあらゆることが霞んでいく。全てが段々遠くなって無意識の海に漂い始めれば夢へと沈んでいくことだろう。あたしもあらゆることを放棄してしまいたかった――あるいはこんな自分自身を忘れたいとどこかで思っていたかも知れない。
 けれども、彼女は眠りに堕ちるどころか浮かんだ誰かの姿があったのだ。「眠たく体沈んだ時あなたの顔が浮かんだ」――そう、傷つけてしまったあなたの顔である。私は思うのだが、混沌である無意識、それが広がる夢へと入り込んでしまうかしまわないかの一瞬の間に浮かぶものがもしあるとすれば、それはその人にとってものすごく大事な、片時も忘れ得ない強烈な何か、なのではないだろうか。恋人であるか友人であるか判別は付かずとも、あなたは――「この体をかけて」と誓う程に――あたしにとってものすごく大事な存在なのだ。第一、一番から続いているとなると、まだあたしはあなたに謝っていないのだ。

■いま会いに行きます
 あなたの顔が浮かんだ。その事実が道しるべのようになって、曲は最後のフレーズへと続く。「あまのじゃくで済まないわ 思いが螺旋を描くよ」と、複雑な思いはまだ消え去ってはおらず、螺旋状になっている。もし仲直り出来なかったら? 気まずくはないだろうか? また何か不用意に言ってしまって、もっと傷つけてしまったら……知恵の輪のように絡み合う思いはけれどもそのままに、あたしは「まつ毛と髪が乾いたらすぐ逢って謝ろう」と曲を締めくくる。
 ここで注目すべきなのは一番で「電話して謝ろう」だったのが「すぐ逢って謝ろう」になっているところである。電話での会話は最初に書いた通り確かに特別感があり甘酸っぱくて素敵なものだし、私も好きなものだ。けれども会いに行けるなら、直接会って会話出来るならそれに越したことはないのだ。電話では伝わらない微妙な感情も、まっすぐな想いも、その人と会って話せるなら――生きている生の言葉で、生の視線で、そして暖かさで全てを伝えられる。ライブを誰よりも大事に考えているaikoだからこそ紡げたフレーズかも知れない。「必ずこの体をかけて」とまでの熱い想いのあるあたしの気持ち。それはあなたに必ず届くだろう。きっと報われ、叶えられることだろう。

■あまのじゃくのためらい
 個人的にこの歌詞の好きな点を挙げるなら、一番と二番の間に若干の躊躇を感じられるところである。「思いが螺旋を描く」と言うフレーズにも表されているが、すぐにでも謝りたい気持ちがあるならさっさとバスタブから上がって謝ればいいものを、ぐずぐずとしていてなかなかはっきりしない辺り、悩める女子の微妙な胸の内を非常にうまく表現出来ていると思う。この躊躇いがあるからこそ、曲を締めくくる「すぐ逢って謝ろう」と言うあたしの決意がなおのこと引き立つのである。

■必ずこの体をかけて――aikoに軽いは存在しない
 ところで歌詞には表れていないが、曲のアウトロでaikoは「必ずこの体をかけて」と一番に出てきたあのフレーズを口ずさむ。少し夢見心地な印象があるが、aiko自身この曲について「ほんとにリラックスした状態で夢の中で歌ってる感じがすごくしました」とaikobonで語っているので歌い手のその心地が歌声にも反映されているのだろう。
 必ずこの体をかけて。ふと冷静に考えてみると、恋人同士でも友達同士でもなかなかこんなこと言えなくはないだろうか。もうちょっと言葉のチョイスをマイルドにしてもいいのでは? と思ったのだが、多分aikoはこれレベルが基本なのだ。ということを最近断言出来るようになってきた。
 これまで何度か彼女の歌詞と彼女自身を考察したり読解したりしてきたわけだが、時折過激と取れる表現がaikoにはあまりにもサラッと(「終わらない日々」の「あたしはサラリと歌いこなす」ではないが)登場する。それは別に何の下心もない、aikoの素そのまんまなのだ。友情であろうと家族愛であろうと恋愛であろうと、そしてファンに対する愛であろうと、aikoは多分いろんな「必ずこの体をかけて」レベルのことを思っていて、それが、多少ヤバいなとは思っていても全て異常だとは絶対に考えないのだろう(し、私もおかしいとは思わない)
 過激かつ過大な表現は時としてうさんくささを感じる。どうせそんなこと言って裏では……と信用のおけないこともあろうし、この人はきっと軽い気持ちで言ってるんだろうなと勘ぐってしまうことも多々ある。が、aikoに関して軽いことは無い。断言出来るくらいに無い。aikoはどこまでも素直に、そいて貪欲にリスナーを、ファンを求めているのだ。バスタブと言う短い作品にもその片鱗が現れているような気がして、私は改めて彼女に隠されている奥深さにぞくぞくする今日この頃である。

(了)

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