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「忘れないで」から導くaiko「クローゼット」試論
 〜 少女から大人の「あたし」へ・過去を受け入れること

※2012年1月30日のブログ「たまきはる」に掲載された記事の転載です。転載にあたり一部加筆修正しました。


クローゼット。「秋そばにいるよ」7曲目、アルバムの中堅曲の位置にいますね。
「秋そば」は何度か書いていますけどaikoのアルバムの中で最も完成度……いや、ただの完成度ではなく、「世界観」の完成度が高いアルバムだと思います。
開始三曲がアルバムオリジナル曲、かつ最後三曲もアルバムオリジナル曲。カップリング曲1曲、既存曲のアレンジ一曲を含むものの、シングル曲とアルバム曲の順序が絶妙で、中でもこの「クローゼット」はホーンセクションが明るく、曲後半からはバックの演奏に深みが加わり、なおかつそれでも3分5秒という驚くべきコンパクトさを以てして全体のバランスをいい感じに締め上げる小品として高く評価されるべき曲であることは、皆さん首肯せざるを得ないことと存じます。
で、すがー。私は、音楽の知識は中学二年の時に全て投げ出しているので、音楽研究は他のaiko研究者の方にお任せします。私の専門は文学。Literature。なので、もっぱら歌詞の方のみ注目いたします。ご了承くださいね。

クローゼット。の歌詞の状況を簡単に解説すると、

「クローゼットの奥から出てきたノートの文言に関する現在の「あたし」の所感、過去の「あたし」、及び未来への展望」

かと思います。カタイ? でも多分そんな感じだと思われます。
ここからフリーダムにたまきが解釈のメスを入れていきます。テンションがおかしい時に書いていた文章ので、かなり軽いノリですがその点もご了承ください。

クローゼットから「引っ張り出してきた」、とありますが個人的には「偶然見つかった」ものであるような気がいたします。
引っ張り出してきた、からにはわざわざ出してきたという意味合いが込められているんでしょうが、その後の歌詞を見ると、何となく掃除してたら見つけてうわーなつかしーあらやだーこんなことあったあった〜!(そして掃除は進まない)的な状況の方が相応しいように思われます。「その時は好きで好きでもう大変だった事」なんて、ちょっと感嘆してる感じだもんね。
でもって生みの親であるaikoの唯一の証言であるaikobonライナーノーツを参照しても、このクローゼットのモデルになったノート(歌詞ノート)をわざわざ出してきたという風に書いてあるようには思えません。

というわけで偶然見つかったノートを見ていろいろ述懐する「あたし」の曲と言うことで進めましょう。

ノートにはいろいろ書いてあるわけですよ。その時好きだった子のこととかね。あの頃遊んだ街並み、隣にいた人の横顔、過ごしたかけがえのない時間。etcetc。
だけど、「あたし」の恋は実らないわけです。もしくはその当時抱いていた悩み事とかがスッキリする形で解消されたわけでも、どうやらないのかもしれません。

私がその証左とするのは「気がつけば時は経ち 朝を何度も迎え/いつも変わらない空に苛立った日もある」という部分。変わらない空は変わり映えのない自分のことを表しているんじゃないかと。
そうしてその後に「そんな過ぎてく日々を背負って/泣くことも知って大きくなる」とあるように、どうしても変わらない部分を受け入れ、そしてどうしても流さざるを得ない涙をも体験し、「あたし」は少女から大人へ成長していったわけです。まあある意味、ふっ・きれ・た♪的なものも感じますな。諦めといいますかね。
「ごちそう並んだ〜」の部分ですが、これは「好きで好きで」なあの子にばかり執着したばかりに、本当は後から考えてみれば何にも代えがたい素晴らしいものであったにも関わらず「何も欲しくないなあ」と思い、ただただ思い通りにならないことを「心痛い」と思っていた――そういう心境を表しているのではないでしょうか。

ですがあたしもただ何もしないまま「少女」から「大人」へ変わっていったわけではないと思うのです。
「少女」である「あたし」はノートに向かい反逆のペンを取ります。どうにもならない閉塞的な現実に対し、思い切り書きまくるのです。
振り向いてくれない「あなた」が「嫌い」と。
そう、二番の歌詞にある「嫌い嫌い嫌い」 キレイキレイじゃないです。「あなた」のことであると明確に示していないので、もしかしたら他の子のこととか、親兄弟であるとか、物事であるとか、運命であるとか、はたまた、自分のことに対して「嫌い」であると「書き殴」っていたのかもしれません。特にね、中高生の頃だと自分嫌いでしょ? 厨二病的な意味も含めてね。
その時はその時ですっきりしていたのかもしれません。ですが言い聞かせるように――そう。対象物を“そうである”と信じ込ませて書き殴ってしまったことにより――「あたし」の心は、次第に小さく欠けていってしまったのです。
言葉には「言霊」というものがあるといいます。それは「声」にして発するものだけでなく、具現化される「文字」にもあるのではないでしょうか。
あらゆる負の要素を持つ言葉が、言い聞かせるように書き殴ることで自分までも呪ってしまうことになった。
少女である「あたし」の反逆は、ひどく皮肉な結果に終わります。どうにもならない自分を、更に摩耗させることになってしまったのですから。



そうして時が経ち、大人になった「あたし」によってノートが発見されます。
その最後のページに書かれていたのが、この曲で最も印象的なフレーズである「忘れないで」であることはみなさん既にご承知であるかと思います。
この「忘れないで」に込められた真意は何なのでしょう。
私はこう考えます。

「あの頃の辛かった、ひどく惨めな頃の自分を、忘れないで」
「あの頃のあたしを、忘れたりしないで」

――過去があり、初めて人は人たりえる。過去を失くすことは誰にも出来ない。
それはひどく悲しいことであると同時に、何にも勝りがたい救いでもあると思われます。
そのことに気付いた「あたし」 あの頃意図せず書いたメッセージに込められた――未来の「あたし」が見出した意味を知ったからこそ、彼女はこう思うのです。

「かじかんでしまった夢の続きを/今もう一度あたため直します」
「あなたの願いが叶います様に」
「あたしの願いが届きます様に」

かじかんでしまった夢の続きは、いつか思い描いていた、そのノートに書かれた夢。
過去に戻ってやり直すことは出来ないけど、考え直してみることは出来る。
そして、あの頃恋していた誰か――もう遠く離れてしまっているかもしれない、思い出になってしまった誰か――の願いが叶いますように。
そしてそして、あの頃の「あたし」のささやかな願いがどうか少しでも叶えられるように――
そう願うことで、現在の「あたし」の祈りが時空を超えて、過去の、傷ついていく自分に届くでしょう。
そうしてそっと、包みこむことでしょう。

どんなに惨めだった「あたし」でも、「あたし」に変わりはないのだから。
誰もその人の過去を否定することなんか出来やしないのです。
その人の過去を含めて、初めてその人はその人たりえるのですから。

「そんな過ぎてく日々はさようなら」
――もう大人だから。もう、自分はいろいろわかっているから。「嫌い」という言葉を書き殴る、なんて、そうやって誰かを不用意に傷つけたり、自分を傷つかせることは、もうしないよ。

「明日をおりこうに待ってみよう」

――さあ、明日はどんな未来が待っているだろう?
――明日は、どんな「あたし」になれるだろう。


ノートを見て、過去を微笑ましい、愛しいと思える、大人になった「あたし」
「忘れないで」の文字が願う。過ぎていった日々を決して亡きものにしないでと。

それが「あたし」の歩んできた道なのだから。
それこそが「あたし」なのだから。

そして、ノートの中に、それは生きているのです。
ノートを開く度、かつての「あたし」は――美しい部分も、醜い部分も含めて――甦るのです。
何度でも、何度でも。


○転載にあたってのコメント○
試論のつもりでしたが、ほとんど完成稿。わたしはクローゼットを、この試論を書いた1月から半年以上経った9月の今でも、大体こんな感じの解釈で聴いています。でも歌詞ですから、また年を重ねたり人生経験を重ねていく内にいろいろ変わるかもしれません。自分もクローゼットのような体験をしたら、それこそガラッと変わるかもしれませんね。

おきあたまき 拝

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