水平線の向こう側へ -aiko「帽子と水着と水平線」読解-



■はじめに
「帽子と水着と水平線」は2003年「蝶々結び」の三曲目として発表され、「暁のラブレター」にも収録されている。アップテンポな曲の為か、発表からじわじわとライブでの定番曲に成長していき、ベストアルバム「まとめⅡ」にはライブ向けアレンジバージョンとして新録が収録された。筆者としては最初はあまり好きではなかったものの、まとめⅡでピアノロックのアレンジとして新登場したことで大好きな曲の一つとなってしまい、今ではライブで披露されるのが待ち遠しい曲となってしまった。ポップでもロックでも適用可能なのがこの曲の強みの一つと言えるだろう。
 曲のテーマ的に言えばアロハでだって通用する。そう、この曲を聴くと遠い昔に赴いた浜辺を思い出す。

■aikobonより ――遠い夏の思い出の
 この曲をaikoはどのような気持ちで作ったのだろうか。aikobonライナーノーツにはこう記されている。

「唯一、女同士で海に行ったことがあって、そのときを振り返って書きました」
「海、行きたいなぁ、楽しかったなぁ、って。その海に行った時にちょうど台風が来てて、ちょっと雨も降ってて、でもどうしても海に入りたくて、人がいっぱいいる海岸を探して行ったんですよ。女子3人で行ったんですけど一緒に行った3人のうち2人はもう結婚して今は子供がいて、2人ともおかんですわ(笑)」

 台風が来てて、雨が降っててなどは歌詞にも表現されているところだ。歌詞ではあたしと君のボーイミーツガール(ガールミーツボーイか?)が描かれているがモチーフとなった思い出はaikoと女友達の出来事である。いつ頃の話かはわからないが、東京に移住しなかなか会うことが出来なくなった友達との在りし日、楽しい記憶は思い出すだけで切ないだろうが、aikoはこのライナーノーツで一言もそんな言葉を挟んでいない。彼女はただ純粋に笑っている。

「私明るい時間の海って苦手なんです。サンオイルのココナッツのニオイがすごいダメだし、海に入ると波で酔っちゃうし、すぐに日焼けしてしまうし……だけど女子3人海ツアーは楽しかった!!!一人は「結婚する」って言ってた直前やったし、いっちょ前にナンパとかもされたりしたし、すごい楽しかった。もう一度焼きなおそうって言ってるもんね(笑)私ねこういうことしたことがないのでちょっとあこがれてたんですよ」

「すごい楽しかった」と繰り返していたり、「こういうことしたことがないのでちょっとあこがれてた」と話したりと、この曲はaikoの願望や妄想や夢がネガティブな要素を挟まず、また現在を皮肉る物語にもならず、純粋に楽しく結実した曲なのかも知れない。そう言った曲はこれまでaikoの歌詞をいろいろ読んできてaikoの作風なり性格なり何なりがそれなりには掴めている(と自負している)私からするとかえって意外な程で、aikoってこういうポジティブ一辺倒な曲も作れるんだなと一周回って驚いてしまった(aikoを一体なんだと思っているのか、とも思うが)
 変に恋愛が絡んでいないエピソードが下地になっているからかも知れないし、友達とのエピソードが恋愛でのエピソードよりノイズを含まないからなのかも知れないが、曲を聴くだけでも、歌詞を読むだけでもうきうきしてしまう曲が生まれたことは喜ばしいことである。

■祝福の準備は出来ていた
 帽子と水着と水平線はざっと読んだ限り素直な歌詞だな、と言う感想がある。これといった引っ掛かりも大きな翳りもなく健康的な曲である。一つ一つ読んでいこう。
「それは偶然で あの日雨が降ったから/君に逢った あの日雨が降ったから」から曲は始まる。aikoがライナーノーツで話していた「台風」や「雨」がここに表されているのだが、台風一過の空は綺麗に晴れ渡る。具体的な不穏は既に曲の頭どころか曲が始まる前に過ぎ去ってしまっていて、荒れ地を癒すかのように祝福が奏でられる。
 あたしは「君」とあくまでも偶然的出逢いを果たすが、ここで注目すべきなのは二人称がaiko御用達の「あなた」ではなく「君」ということだ。「君」を選ぶ辺り年齢的に幼さが見えるが、何となくの話になるが、「あなた」ではなく「君」だと目線的にも同じ位置にいるような気がしないだろうか。名曲「君の隣」も隣り合う存在を「君」と呼んでいたし、「テレビゲーム」も愛し合う二人と言うよりは信頼し合う二人というか、いずれの曲にしろ恋愛程難しい世界にいかずとも近しい間柄かつ、大切な誰かを呼ぶ時の呼称として「君」は採用されているような気がする。偶然出会った二人だが、あたしにとっては最初から近しいものを感じていて、気さくな情を以て「君」と呼ぶことにしたのだろう。
 Bメロの「青の水平線に晴れた空が 落としていったもの/鮮やかな夕日を見て」は短いのに色彩と情感に溢れていて、三十一文字ではないがaikoの詠んだ歌、と言いたい。快晴から美しく沈む夕日。水平線はやがて夜を描いていく。だが歌詞上もサウンド上も不穏を奏でない。サビに向けて調子はどんどん上がっていく。
 好きになるかも知れないと言う予感から既に恋は始まっていると歌っているのは「あられ」だが、この曲でもサビはこのように始まる。「もう始まっていた あっけなく好きになっていた」と。恋が始まることにも、恋に溺れることにも、そして勿論恋の終わりにも何の不安も感じない。楽しいことが待っているという未来を何の保証もなく信じられる前向きなパワーが宿り、花開いている。
「赤い帽子のツバが曲がって 隙間から覗く/大きな瞳に夜が来たとしても/風が吹いてもあたし目が離せない」とまで言う。たとえいかなる困難が襲い、君の瞳に陰りが去来しようとも、恋に堕ちたばかりの「あたし」は「君」にくぎ付けだし、そんな未来が来ようとも逃げることは一切しないと誓っているのだ。

■君のハートを連れ出して
 軽やかさを持続させつつ二番が始まる。何かストーリーがあるわけでもなくポイントの描写なのだが、短さの中に甘酸っぱさを覗かせるのはさすがaikoとその手腕に唸らざるを得ない。「耳の中には星の砂の忘れ物/足首には約束の黒い紐」は「You & Me both」の「フライパンの流星群」や「卒業式」Cメロ辺りを思い出す、まるでイラストやフォトギャラリーのような歌詞でとても好きなフレーズだ。「星の砂」は海で採れるあれではなくイヤリングもしくはピアスのことであるとどこかでaikoが解説していたはずだが、ソースは見つからない。足首の約束の黒い紐とはミサンガ的な何かだろうか。短いながらも「耳の中」だったり「足首」だったりと箇所が実にセクシーで、リスナーにあたしと君が接近していく情景を浮かばせる。
 全編見ても特に海辺から移動していないこの曲だが、「あたし」の方は明確に「君」をここではないどこかに連れ出そうとしている。その意志がはっきりと表れ始めるのが二番Bメロで「早くこっちにおいで 離れちゃだめさ/危ないよ気を付けて この手を離すな」と歌われる。読んだ限りではまるきり逃避行だ。甘酸っぱさに満ちている。歌詞としても「おいで」「この手を離すな」と「あたし」の方が男性的な行動力に溢れていて、とてもきゅんとなるところではないだろうか? とても好きだ。
 今男性的な、と書いたが、この曲はあまり「あたし」の自意識に支配されていないというか、一人称としての「あたし」の影が薄い。もっと言うなら女性的な視野も薄い。だから私が最初に書いたような「ボーイミーツガール」の作風を感じてしまうのも無理はない話ではないだろう。
 二番サビも高揚感そのままに続いていく。「もう始まっていたあっけなく好きになっていた/赤い帽子を風が弾いて くるり宙返り」と一部一番サビのリフレインがあるが、「赤い帽子」と言うのが、「赤い靴」ではないが「君」を束縛する何らかの記号になっているのかも知れない。赤い帽子を風がさらって自由になった君は――というか、その隙を狙ってあたしの方から君の手を奪って、その場から連れ出していく。
「目指す空の下 色違いの指先/全部君にあげるよ さぁ目を閉じて」とその様はあくまで爽やかで健全で、けれどもなんと強引なのだろう。これはそのままライブで、既に最高潮に達していると言うのにまだまだ更なる高みを目指して観客全員を連れ出していくaikoそのものでもあるような気がする。「色違いの指先」も先ほど同様ソースが見つからないがマニキュアで彩られた指ということをaikoが解説していたはずだ。
 全部を君にあげると約束するあたしは一体何なのだろう? 何者でもない。ただ未来への希望と確信に満ちているただの名もなき誰かだ。だがその様は実に頼りがいがあり、美しい。

■終わりだけど、終わらせない
 上がったままの高揚感はやはりキープされ、曲の終わりも近付くCメロへ進んでいく。サウンド的には少し落ち着くが、君を連れ出したあたしが止まることは無い。「背中の水着の跡 もう一度焼き直そうか/小さな屋根の下で 寄り添ったままいようか」――はしゃいで遊び続けるか、獲得した愛をじっくり感じていようか。一番と二番でごっそり収穫してきた幸せの予感がここで実り、堪えようのない多幸感となってリスナーを魅了する。「終わり」と言う事実から逃げきれない、いや逃げないはずの作家aikoが、何一つ終わりの要素を匂わせないのは非常に珍しい。それも夏のある日に見つけた恋と言う終わりが付き物のようなモチーフであるにも関わらずだ。むしろ、触れないことで逆に終わりを描きつつ、いや、けれども終わらせまいとしている説明無用の強度を感じさせようとしているのかも知れない。
 大サビは一番サビのリフレインだ。「もう始まっていた あっけなく好きになっていた」のだ。恋が始まる曲ではなくもう既に恋が動き出し、加速さえしている。この曲のネガティブな要素というとこのサビにある「大きな瞳に夜が来たとしても/風が吹いてもあたし目が離せない」くらいしかないのだが。これも先述した通り、「目が離せない」の言葉通り、そのピンチや憂鬱からも逃げない、全てを見ていたいと言う強い気持ちを「あたし」はまっすぐに伝えてくる。

■水平線の向こう側へ
 読んできた通り、aikoの曲でも屈指のポジティブさ、前向きさに溢れた曲である。恋が始まり、ここから先うまくいく予感しかない。その一瞬の最高潮を切り取ったかのような歌詞は間違いなくマスターピースの一曲だろう。先述した通りこれまでの私が歌詞研究で扱ってきた鬱々とした重々しいaikoは一体何だったのだろう? とこの一曲で思わせるに十分な作品だ。
ライブで盛り上がるのも納得だし、そもそも、曲が出来た元となったエピソードに悲しみも切なさも滲み出ていないのだ。何のノイズもなく書き上げられた作品で、歌詞研究する上では逆にとっかかりが少なく、少し優等生過ぎるところもあるが、歌ってるaikoがハッピーで聴いている私達もハッピーなのだ。本来音楽とはそうあるべきだし、別に何も問題ない。楽しければ十分正解だ。
 それでも一つ思うとするならば、この曲にネガティブ要素もとっかかりもないとは書いたが、「どこかから連れ出す」モチーフが二番で出てくるところが少し不思議かな、というところだろうか。
 甘酸っぱい逃避行と書いたが、あたしからアプローチを受けている君は、赤い帽子が象徴となって何かに囚われていて行動が制限されているように見える。 この部分、私が思うに――この「帽子と水着と水平線」がライブで盛り上がる曲だと言うことを踏まえると――君とは聴衆、ライブに集うファンのことを指しているのかも知れない。
 ライブとは非現実と非日常の極みの果てである。会場に集う私たちは現実と日常の合間を縫い、境目を切り裂いている。ライブの二時間は本当に魔法の時間だ。あっという間で、終わってみるとそれはただ脆くて儚い。故にaikoは、何もかも今の一瞬は忘れて欲しい、嫌なことは全部おいていって欲しいと何度も声に出して言う。aikoこそ、私達以上に現実から私達を連れ出したい。そう願っているはずだ。
 だから、「なんと強引なのだろう」と書いたが、その為になら強引にならざるを得ないのだ。曲の終わりが近づくCメロで彼女は「背中の水着の跡 もう一度焼き直そうか」と歌うが「もう一度」と貪欲に求めるのも、楽しい時がずっと続けばいい。終わるのならばもう一度やればいい。そんな願いが表されているのかも知れない。――でもそれはちょっと深読みが過ぎるもので、実際悲愴でもなければ切なくもない。むしろその願いさえもポジティブな情熱に溢れていて、穿った読みなど跳ね返してしまうのだ。それがaikoの真の本質だと私は思う。

 また一年歳を重ね、来年にはいよいよメジャーデビュー二十周年を迎える。待望の新曲も誕生日の一週間後にやっと手に届く。ますます待ち遠しいのは日常と言う水平線の向こう側へ――夢の向こう側へ、私達のハートを連れ出してくれる彼女のライブへ行ける日だ。来年は今年より忙しくなるだろう。左足もしっかり治してもらって、またaikoとの夢の時間が過ごせるようにと切に願う。その時は、この幸せ溢れる曲を是非演奏してもらいたいものである。

(了)

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