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父と娘と、一番身近な異界と禁忌 ――aiko「鏡」読解



■はじめに
「鏡」は特殊な曲である。aiko史上初の一人称・俺が用いられた曲であり、「BABY」発売の時はよく話題にのぼっていた。個人的な思い出を語ると「aikoがあたしと僕以外でそんな……!」と不安を隠せないでいた。「BABY」自体が特殊なアルバムであることが発売前からなんとなくわかっていたので、大層不安だった。まあ、結果はご覧の通り何も変わらないどころか、ますます好きになったのであるが。

 発売時のオリコンスタイル(2010・4月12日号)のインタビューによれば「鼻歌から生まれた曲」であると言う。
「お風呂に入っている時に、そのフレーズ(OK キミをガン見さ)がふっと浮かんだ。(中略)十分くらいで作ったんです。「BABY 愛しているぜ」ってどんどん言葉が出てきて」
 そのあとに「『鏡』はさかむけがいっぱいありそうな男のコのイメージ(笑) こういう素直でまっすぐな男のコを設定したことで、自分が心の奥底で想ってることが素直に書けた感じがする」と語り、「ずっと自分の中に男も女もいるんですよ」と「鏡」がaikoの男性性の顕れを示唆することも述べている。

 私は、どこでどうそんな間違ったイメージを生成したのかはわからないが、このやんちゃ系男子とそれからは遠い女の子(たぶんお嬢様)の恋愛の終焉をこの曲に抱いていた。あれである。簡単に言えば身分差恋愛である。身分差萌えである。いやむしろ、アウトロー男子と委員長女子のカップリング萌えか! 昔から王道だ! とかなんとか、そんな萌えをこの曲に投影していたのである。俺みたいな奴に、キミはもったいなさすぎる……とか、俺とお前じゃ住む世界が違えんだ、ケッ! みたいな。なるほど妄想力溢れるリスニング方法ですね。
 それから「咳が止まらない夜も 必死になって働いた」というフレーズに社会派な何かを感じこれはプロレタリア文学か! とも思ったりした。働く、という言葉は今のところこの「鏡」にしかあるまい。恋愛が非日常と言うわけではないが(でもある意味非日常だけど)aikoの曲と、そういった泥臭いイメージのある語が結びつくのは不思議な感じがする。ちょっと遠い。ヨイトマケの唄のようなものならまだしも。

■父と娘
 ところで「鏡」の解釈には、一つ面白いものがある。この解釈を目にしてから、「鏡」を先に述べたカップリングとは別に、このもう一つの文脈や背景を以て聴くようになったのである。
 それは2010年4月8日に送信されたaikoメールに書かれている。aikoはこの解釈を「凄い発見」と書いている。
 まずメール内では、aikoの想定している「鏡」の世界は「ちょっとやさぐれた男子が優しい女子のことを大好きになって付き合って一緒に暮らすんやけど別れることになり、明日彼女がこの部屋を出て行く」と言うものであることが書かれている。
 しかし、テレビ局とラジオ局のスタッフの方二人(テレビとラジオと書かれてるので、同一人物ではなく、別々の人だ)にこう言われるのである。

「鏡って、明日お嫁にいってしまう娘を想うお父さんの歌ですか?」

 この解釈は衝撃的であった。aikoにとっても「びっくり」で、「そう思えば思うほど切ない」と書いている。
 これは慧眼だ、素晴らしい解釈と言わざるを得ない。しかも二人から言われたと言うことは、この二人の他にもそう解釈している人がいてもおかしくないだろう。確かに、「白い横顔綺麗さ」と言う大サビ前のフレーズ、何気ないようなフレーズに見えても、父と娘のものと考えると、白いというのはウェディングドレスのベールのことなのかもしれない。それにアルバムタイトルにもなっている、この曲に登場する「BABY」はそのものずばり赤ちゃんと言う意味で、つまり子供のことではないか。
 他にも様々なフレーズが意味を違えて迫ってくる。女だが「娘」である存在に、男だが「父」である「俺」は決して触れられない。そんな禁忌と情が入り交じる故に、aikoの言うようにますます切なく響いてくるのだ。
(さすがに勘ぐりに過ぎることだが、おそらくこの「鏡」は父子家庭であるところが、aikoが長年母と離れて父と親戚のもとで暮らしていた影響が伺える)
 むろんaikoが想定している解釈も先に書いた通り好きなのだが、自分は家族ものに弱い人間である。この解釈は泣けるではないか。そんなわけで今回の考察、というよりは読解はこの解釈をもとにやっていきたい。


■子は親の鏡
「キミは俺の鏡さ」も何度も繰り返されるフレーズであるが、考えてみれば子は親の「鏡」みたいなものだろう。外見からの意味でも、内面からの意味でも。いい意味でも悪い意味でも、自分を反映した結果が子供として顕れている。そう言えるならば、子は親を見て育つのだから、親は子の「鏡」と逆に言っても可能かもしれない。ところで親と子で鏡と言うと、思い出すのは落語「松山鏡」である。噺の筋は各々調べてもらうことにして、落語には父と子の噺が多い。それについて私は、母親に比べて父親の方が子との結びつきが薄い故ではないかと考えているが、この話は置いておこう。その考えを以て聴くと、やはり「キミ」とはお嫁に行くことになった娘のことであると思う。
 ところで鏡とは、自分の姿を映す道具である。向き合って初めて意味があるそのアイテムに、己と並ばせてしまっては意味がない。互いに向き合う存在であり、並び立つものではないことを、このフレーズは表しているのかもしれない。つまり、父と娘が結ばれることはない、と言うことか。


■一番身近な異界と禁忌
 鏡について、もっと言ってしまえば、一番身近にある異界であろう。よく怪談などで鏡に未来が映ったり、鏡の世界に行ってしまったりなどする話があるけれど、それも鏡が持つ特殊性故ではないだろうか。
 鏡面世界はこの世界と非常によく似ているどころか、左右反転している以外は全く同じ世界である。それなのに鏡の向こうは異世界だ。そしてその世界を私達は毎日見ている。毎日目にしている。が、決してその世界へは入れない。私達はアリスではないのだから不可能である。不可能に近い言葉として、禁忌がある。いや、禁忌はむしろ、可能であることを敢えてしてはいけない、と言うことであるが。
 鏡と言う境界を越えることを、何かの一線を越えることとして捉えるなら、それはつまり禁忌を破ることに繋がる。今まで述べてきたことを踏まえてある一種の禁忌を考えるなら、それは、近親相姦が一番近いのではないか。やさぐれ男子と優しい女子の恋愛であるこの曲に父と娘という新しい解釈を被せてしまった為に、そういった穿ったゲスい見方はなかなか払拭出来ないだろう。
 しかしながら近親相姦は私の一番の地雷(地雷:同人用語? 簡単に言えば、苦手で大嫌いな趣向)なので正直あれやこれやと述べることはしない。別に、最初に述べたような身分差恋愛で考えてもいいのだ。身分の違いを乗り越えることは禁忌なのだ。そう、この曲の「俺」と「キミ」の間にはある一種の禁忌が存在しており、それ故に二人は別れる運命にあるのだ。
 いやしかし、その「鏡」であることは限定的なものかもしれない。禁忌は限定的なもので、破らずに結ばれることが出来るかもしれない。「ドアを開けて出ていくまで」とあるのだから。
 が、よくよく読んでいけば、その「ドアを開けて出ていく」のは「明日」もしくは「今日」であり、彼女が出ていったが最後、「この部屋は息をしなくなる」のだ。「俺」の住む世界に、意味はなくなってしまうのだろう。そこでその恋は終わりを迎えてしまうのだろう。


■「俺」の独白
 そんなことない、と言ってくれる何かが、たとえば「キミ」の言葉が歌詞の中にあればいいのだが、この「鏡」には徹底的に「俺」に語られる「キミ」しか存在していない。「鏡」は最初から最後まで「俺」の独壇場だ。「OK キミの一つの質問に返事は沢山 知ってくれよ いろんな事」のフレーズはそのままこの曲のことではないかと思わせる。尤も「鏡」にはその「キミの一つの質問」すら無いのだが……。
 肝心なのは「キミ」がどう思っているかが全くわからないところであり、しかしそこに「鏡」の切なさがあると思う。ところで一人語り系の曲と言えば「ボブ」もある。あれもまたわずかに「あなた」の描写があるだけで、「あなた」がどんな人かは何となく察せられるが、語り手へ向けられた言葉などは出てこないし、どんな出来事があったかもわからない。
「ボブ」にしろ「鏡」にしろ、徹底して一人語りであるところが「もう相手に触れることもなく、届くこともない」と思わせて、余計に切ないのかもしれない。それこそ、「鏡」の向こうの世界のように、すぐ傍にあるのに、永久に閉ざされているみたいではないか。
 終わりは必ず訪れる。並んで歩きたくても、鏡と言うものに喩えられる以上、二人の物語はそれ以上続かない。それを悲嘆するかのように、だが隠し通して笑うように、やけっぱちのように、実に絶妙な配分でaikoは歌いあげた。その様はどこかハードボイルドでもあろう。最後であるからこそ、いやそれ以上に鏡であるからこそ、キミを「ガン見」するのである。終わってしまっても、心に残るように。この「鏡」の「俺」が父親でも、それともやさぐれ男子でも、永久に「キミ」の存在は残り続けるであろう。

(了)

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