恋は甘くて苦いもの -aiko「こんぺいとう」読解-



■はじめに
 私がaikoの曲の中で一番好きなものは「スター」であるが、今回はスターの三曲目に収録されている「こんぺいとう」について考えてみることにする。こんぺいとうも、形を考えると小さな星のような菓子なので、スターのカップリングとしてなかなか相応しかったのでは、とちょっと思うが、これは本筋には関係ない話である。
 しかしこの「こんぺいとう」はaikoによるとお菓子のこんぺいとうのことだけを指すのではないようだ。歌詞にもそれが表されているが、オリコンスタイル二〇〇五年十二月十二日号でaikoが「私、子供の頃から噛み癖があって。ま、すべてはお父さんのせいなんやけど。(中略)イラッとしたら、体を噛めって教えられたんです(笑) それで今も、人のことも噛むけど、自分も噛む。恋愛とか対処できないほどに大きなショックを受けると噛んじゃう。自分が痛いのは心じゃない。この腕なんだって錯覚させて逃避しちゃうクセがある(笑)」「これくらいの年齢(筆者注:当時三十歳)で負う恋愛の傷はすごく大きくて。腕に柄が残るほどで、それはこんぺいとうみたいにみえるなぁって」と言うように、腕に噛んでつけてしまった、こんぺいとうのように見える傷痕のことも指している。
 むしろそちらがメインである。可愛らしいタイトルのように見せておいて、その実なかなかにヘヴィな一曲である。インタビュアも「改めて、aikoちゃんの愛の歌は、狂気の愛に限りなく近いですよね」と思わず言ってしまう程で、aikoも「痛いですよねぇ(笑)」と返している。
 aikoがそう言うならば、希望よりも熱く絶望よりも深い人間の感情の極みここにあり、とどこか頷いてしまいたくなるものだが、「こんぺいとう」とはどのような曲なのか、私なりに考えてみたい。

■別れの瞬間 ―痛いこんぺいとう―
 同じスターのカップリングである「蝶の羽飾り」は「別れた後の思いの曲」であるが、「こんぺいとう」は「これは「蝶~」と違って、その瞬間を切り取った曲なんです」とaikoが言うように、「別れとその後」よりも「別れ」の一瞬間にフォーカスが当てられている。
 一番の歌詞がまさに別れを切り出す瞬間である。「突然かけてくる電話 こんな時間にどうかした?」とあるように恐らく相手からかかってきた電話に対し、「いつもふりまわしてくれて どうもさようなら」と相手に切り出している。その後、電話をガチャン! と切っているのではないかと思わせるようないさぎの良さを感じさせる。歌いだしの「白いペンで書いたから あなたはきっと気付かない」とそれに対応するBメロの「あなたには見つけられない あたしの最後のメッセージ」もなかなかにくいものだ。「見つけられない」のは、別に一見見えない白いペンで書いた所為だけではない。それ以前の問題として、もう「あたし」の想い自体、相手には捉えられない程、二人の間に溝が出来てしまっているのである。見つけてもらえない故に、「あたし」の方から去っていくのだ。
 ただ、それでも二人の間に恋愛関係が結ばれていたのは確かな話だ。そこに愛があるなら、確かに恋人同士であれば、多少の苦難には目を瞑れたはずだ。「一緒に溺れてしまえるのなら それでもいいと思ってたの」と思っていたのだから。関係を続けていくことで「あたし」の心にかかる負担を、aikoが言うように腕を噛み、心が痛いのではなく腕が痛いと敢えて錯覚するようにして、「あたし」の方は必死に誤魔化していた。
 そこまでするか? と読んでいて疑問に思ったが、むしろそうまでして「一緒にいたい」と思っていたのだ。だが、歌詞が過去形になっていることから、そして「あたし」の方から別れを切り出したことからも明らかなように、既に終わってしまった恋である。きっと「あたし」の痛みが限界を、閾値を超えてしまったのだろう。「一緒に溺れてしまえるのなら それでもいい」と思えなくなった。或いは、「一緒に溺れる」ことさえも、もう出来なくなってしまったのだ。

■嘘と我儘 ―こんぺいとうと言う愛―
 二番は「あなた」との日々の回想である。「今頃イビキでもかいて寝てるのかな」は現在の「あなた」の推測であるが、「あたし」の方は自分から恋に引導を渡した、かつて自分を傷つけてまで守ろうとしたものを、きっと断腸の想いで捨てたと言うのに、相手の方はこんな状態なのだ。大したことないと思っている。相手と「あたし」の想いの重さ、その相違が悔しい程際立っている箇所で、これ以上の皮肉はない。その前の「傷が癒えぬ間にまた傷付いて」と言う箇所も、「あたし」ばかりが傷ついていたんだと思わせて、余計「あなた」に腹が立つところである。
 そんなだからこそ、「あたし」の方も「あれ?」と思ったに違いない。通じ合っているはずなのに、相手のことが「少しまた少し見えなくなって」いく。「歯磨きの時間映画の日 知ってた涙のスケジュール」が個人的にどう判断つけていいものかわからないフレーズだが(aikoさんこういうのちょくちょくある……)「涙の」とあるので、約束していたスケジュールが相手の都合によって破棄されてしまったもの、なのかもしれない。「歯磨きの時間」だけが微妙に浮いてしまうが、生活を共にしていた、と言うニュアンスの表れか、と思う。
 オリスタでaikoは「2コーラス目のこんぺいとうは(一番とは)別で。好きな人のウソやわがままとか、お互いのいけないところを隠すために甘いこんぺいとうをなめるっていうほうの意味」「恋の苦みを甘いオブラートで包むようなイメージ」と語っている。「あたしの我が儘 あなたの嘘/隠す甘いこんぺいとう」の歌詞そのままであろう。その直前は「二人の溢れる想いがあれば 何でも出来ると思ってたの」であり、一番の「一緒に溺れてしまえるのなら それでもいいと思ってたの」と対になっている形であるが、ここも「思ってたの」とあるように既に終わってしまっていることだ。
「あたしの我が儘」や「あなたの嘘」から察せられる、崩壊しかけている二人の関係を、今度は腕の痛みでなく「甘いこんぺいとう」で誤魔化そうとした。無論実際にこんぺいとうを舐めているわけではなく、何らかのメタファーであろうが、では、恋愛では何を以て相手の嘘を許せる、誤魔化せると言うのか? 答えはおそらく「愛」であり、ここでのこんぺいとうは「愛」のメタファーである。「愛」があるから許せないのではなく、「愛」があるから許してしまおう、と言うことだが、主人公はそれが致命的なミスであったことにその時点では気付かない。その「愛」がやがては消えてしまう幻想に過ぎなかったことにも気付けないのだ。
「イビキでもかいて寝てるのかな」の時点でも見えていたことだが、おそらく「あなた」の方は、「あたし」程この恋愛を深く考えておらず、「あたし」のこともまた軽く考えていたに違いない。「あたし」がどれ程傷ついているかも、恋が終わっても毛程も考えていないかもしれない。このような男、滅亡待ったなしと言いたいところである。
 やや脱線したので話を戻す。大サビに至るまでのCメロは「ドロップ」と言うもう一種の飴を涙のメタファーとしてとして用いているがその味は甘いものではなく、きっと恋の苦みや痛みを凝縮させたように「苦い」のであり、「忘れられない恋の味」である。舌を通じて全身に行き渡るその苦みは、悔しさでもあろうし、虚しさでもあろう。
 そして最後は一見すると一番と同じサビだが、最後が違う。「腕に赤い「散らばった」こんぺいとう」と言う文になっている。(括弧筆者)やり過ごす為に噛んだこんぺいとうは一ヵ所だけに留まらず、あちこちにまざまざと残っていたのである。オリスタでaikoの言っていた「腕に柄が残るほど」のすごく大きい「恋愛の傷」達だ。こんなにも、自分は傷ついていたのである。
 それまでは、愛と言う幻想の甘さで見えなかったものが見えてしまった。恋の終わりに残ったものは、「こんぺいとう」の時点では「傷付いた自分」だけなのだ。何とも、虚しく切ない終わりである。

■甘くて苦い恋の終焉
「こんぺいとう」の物語は既にサビの一言に集約されていると言っても良い。「一緒に溺れてしまえるのなら それでもいいと思ってたの」「二人の溢れる想いがあれば 何でも出来ると思ってたの」の二つである。何故「思ってたの」と敢えて歌うのか。そんなの、もうその時点で「思っていない」からであり、万が一の可能性もないからだ。恋は徹底的に終焉を迎えてしまっている。
「傷が癒えぬ間にまた傷付いてプラスはマイナスに」ともあるように、恋におけるプラスとマイナスが上回って、比喩を用いるならば爆弾が爆発してしまったような状況なのだ。限界を超え、苦しんででも守ってきた恋を「いつもふりまわしてくれて どうもさようなら」と自分で終わらせる。幻想もまた終焉である。恋の終わり方としてはこれといって珍しくないものだが、それでもやっぱり、読んでいて辛いものがある。
「お薬」で「時間がお薬」と歌われるように、やがては時間が解決するだろう。傷は癒えるものだ。二人で過ごした時間がたとえ無理をしたものであっても、ところどころ誤魔化したものであっても、思い出が確かにあるはずだ。けれども、「こんぺいとう」はaiko曰く「別れの瞬間を切り取った」物語であり、時間と言う優しさはまだ介入していない。あくまで今の「あたし」に残るものは、忘れられない恋の味としての「苦さ」と、いつの間にかあちこち傷付いていた自分自身である。リスナーとしての私達が祈れることは、早く彼女が立ち直れますように、その傷が早く癒えますように、と言うことのみである。そして教訓としてそれこそこんぺいとうのような傷として残るものは、恋と言うのは、決して甘いだけのものではない、と言うことだ。あるいは、愛もそうなのかもしれないが。
「こんぺいとう」なんて可愛らしいタイトルで甘いイメージで油断させておいて、どん底に突き落とす。aikoとはそう言う、世にも恐ろしい奴なのである。


■おまけ・「遊園地」との比較
「泡のような愛だった」収録曲の「遊園地」を最初に聴き、歌詞カードを読んでいた際、私は「こんぺいとう」を思い出した。と言うのも、「遊園地」にはこのような歌詞があるからだ。

 抱きしめてくれた時 左肩を噛むと「痛いなぁ」と
 目を合わせてくれるから またやった

 単純に「またこの人噛んでる……」と言う思いつきからの「こんぺいとう」の想起なのだが、少し考えて「あれ、「遊園地」と「こんぺいとう」ってちょっと似た所あるかも?」と思った。
 しかし歌詞を比べてみると、確かに一見似ているが、あながちそうでもない。そも、「遊園地」は「自分に対して」噛んでいるのではなく、「相手に対して」噛んでいるのである。なお、それは「あなたの首筋に噛みついて 絶対離れはしないわ」と歌っている「愛の世界」においてもそうである。何かをやり過ごす為に噛んでいるのではなく、相手が愛しくて噛むのである。お前は動物か。
 そして「遊園地」は「こんぺいとう」と同じように「柔らかな想い出はもう 部屋の隅のホコリと/窓から一緒に捨ててやりました」とあるように、想いを捨てる曲である。けれども、状況は全くの逆である。「こんぺいとう」は自分から相手の元を去るのに対し、「遊園地」は「大切な人は合図もなしに あたしの前から居なくなりました」とある。「遊園地」の「あたし」は相手に捨てられた方なのである。もっと読めば「相手は自分ほど自分のこと(及び自分との恋愛)を深く考えていなかった」状況の末にあった破局であり、この点は「こんぺいとう」とも同じなのだが、突然訪れた終焉に対し呆然としている印象が、「こんぺいとう」と違う点である。「遊園地」のあたしはまだ「遊園地」にいる心地なのだ。けれども祭りの時間は終わってしまった。閉園の時間だ。
 もう一つの違いとして挙げられる点は、「遊園地」は「こんぺいとう」より少し時間が経っていると思われる点である。あくまで現在、恋の終焉に直面していて、他のことを考える余裕も、傷を思い出に昇華する気力もない「こんぺいとう」と違って「遊園地」は少し時間が経ってしまった故に、「こんぺいとう」ではまだ描かれていない「未練」を描いている。
「巡り巡ってまた帰って来ないかと/今でもついたまに玄関先で」思ってしまったり、「二度と行けないあの場所 何回目をつぶれば/消えて行くのだろう あなたのいる遊園地」と、「あなた」との時間がまだ目に焼き付いている。
「柔らかな想い出」を「部屋の隅のホコリと/窓から一緒に捨ててやりました/握りつぶして捨ててやりました」と歌っているのにも関わらずこれなのであるが、だからこそ、「握りつぶして」「捨ててやりました」などの少し乱暴な表現が、もうこれで最後にしよう、と言う覚悟や奮起なども伺える。「明日の歌」の「誰かが鼻歌であの雲の向こうまで/笑い飛ばしてくれますように」と形は違えど、同じ種類の祈りだ。そんな風に感じられる。

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