■あたしの嘘 あなたの嘘
 嘘は何も相手につくものばかりとは限らない。自分自身に言い聞かせる言葉が嘘そのものであることもよくある話で、人生で一番多い嘘は自分につく嘘かも知れない。この「二時頃」の「あたし」も、「あなた」だけでなく自分自身――「あたし」自身に放った嘘があるかも知れないし、「あなたを忘れる準備」と言うことから、むしろここで歌われた「嘘」は「あたし」自身のものであったのではないか、と私は思うのである。
 勿論外面的な嘘、「あなた」に対してのものもある。「あなたには嘘をつけない」を最初に出している以上はそのフレーズに対応させているのだろうし、尚更だ。直前の「言ってくれなかったのは」がCメロで登場した「Tinyな女の子」のことを指しているのであるから、「Tinyな女の子」の存在を知りながら知らない振りをすることが、そう偽ることがあなたへの「嘘」と読めるし、むしろそう読むのが自然である。ただ、これだと「精一杯の抵抗」および「あなたを忘れる」には繋がりにくい。「Tinyな女の子」を知っていることを隠すだけで果たして「あなたを忘れる」ことになるのか、「まだ好きでいたい、関係を続けたい」と言う自分に対しての「抵抗」になるのだろうか。むしろ加担していると言ってもいい。
 それか、先述したこととは異なるが、ここでの「抵抗」とは「あたし」に対する抵抗ではなく「あなた」に対する抵抗と読むか。しかし仮にそうだとしても、彼女の存在を知っていて、それを黙っていることはやはり「抵抗」と言えるか疑問である。むしろ耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んでいるようにしか思えない(まあ、間男ならぬ間女の位置にあるのは「あたし」の方だが)そりゃあ、「彼女がいるくせに私と電話しやがって、ナメた根性しやがる」と言う「あたし」の冷たい「怒気」を感じようと努力すれば感じられなくもないが、激しいロックならまだしもバラードに近いミディアムの雰囲気はその読みをやんわり拒絶する。それに静かなる憤怒を抱くことはやはり、「抵抗」と言う語句が持つ積極性とはそぐわない気がする。
 それと、恋が終焉の道を辿ると言う文脈、そして先述したが「あなたには嘘をつけない」と最初に危ういものを表している以上、「あなた」に何らかの具体的な、恋路を断つような嘘をつく(言葉で発する)と言うフラグは成り立たせなければいけない、と個人的には思う。具体的な嘘。これはリスナーによって千差万別となりそうだ。「彼氏が出来た(だからもう電話出来ない)」と言うのでもいいだろうし「しばらく忙しくなるから電話出来ない(そしていつしか電話は絶え、関係もなくなる)」とかかも知れない。そうやってやんわりと関係を絶っていく嘘だ。ただし、前述したようにもう「あたし」の知るところとなってしまった「Tinyな女の子」には、嘘の一部であるため、あえて触れない。「あなた」側は「あたし」がはっきり「Tinyな女の子」の存在を知っているとはわからないまま(解釈次第では全く知らないと思いこんだまま)「あたし」との関係を終えることとなる。こういう嘘をつくことこそ、彼女の存在について最後まで明言しなかった、言わば、「あたし」と違って「嘘」をつき続けてきたずるい「あなた」に対するちょっとした「抵抗」――あるいは「意趣返し」なのかも知れない。そういえば「二時頃」の前の楽曲「赤い靴」に「あなたがあたしについた嘘」と歌われているのをここまできてやっと思い出すが、「赤い靴」に寄り道し比較している余裕はないので、残念だが割愛させていただく。

■そして「あたし」は嘘をつく
 話を戻そう。なるほど「抵抗」にはやはり「あなた」へ向けた面もあると読めそうだが、しかし私が読み解く「抵抗」は、「あなた」に対するものよりは「あたし」自身に対するものだということは先述している。今度は内面の嘘、自分自身についた嘘を考えたい。
 これは先ほど抵抗は「強がり」だと少し書いたが、この「二時頃」の状況で強がりを言うならばどんなことかと考えてみればいろいろと想像がつくだろう。あるいは真実とは反することを押しつければそれが強がりだ。「二時頃」の前半で歌われる気持ち。「あたしはあなたのことが好き」「ずっとこの関係を続けていたい」――それの反対。それは「あたしはあなたのことは好きじゃない」とか、「この関係はもうやめた方がいい」とか、「この人よりもいい人がいる」「他に好きな人なんて沢山いる」とか……とにかく、聞いていてこちらがつらくなる、「あたし」の気持ちに反するものばかりである。けれどこの恋は終わり。相手のことを少しでも早く忘れる為には――こんなに切なくて苦しい気持ちから解放されるためには、精一杯の嘘をついて自分自身をだまくらかしてしまうしかないのだ。
 恋を諦めきれない、まだ好きでいたい、まだ望みを持っていたい「あたし」と言う少女の本心。けれども冷静に恋の引き際を認めた「あたし」は、もはや「嬉しくてただ鼻をすす」る少女の面影は無かった。「精一杯の抵抗」として、「忘れる準備」の為の「嘘」の弾丸を込め、つけないはずの「嘘」の銃口を「あなた」にも、「あたし」自身にも向け、そして放っていく。このように、「嘘をつく」という一種のイニシエーションを通じてまだ少女であった「あたし」は傷ついた大人の女である「あたし」に変わっていく。あのくだりを、私はそう読んでいる。「ついてしまった」という書き方にしても、決別の念が多分にあるように思う。
 最初から触れていることだが、嘘をつけなかったはずの「あたし」が曲の最後で嘘をつくことになってしまうのは痛烈な皮肉であり、リスナーの心に複雑な気持ちを残していく。本心を言ってはいけない、気持ちに反した嘘しかつけない状況と言うことで、aikoオタクであると同時に(あくまで軽度の)ドラえもんオタクである私が思い出すのは「ドラえもん」の真の最終回である「帰ってきたドラえもん」である。ドラえもんが残した最後のひみつ道具、言ったことが全てウソになる「ウソ800」を飲んだのび太は「ドラえもんが帰ってきた」と言う、ドラを失ったのび太にとって最も残酷なウソをついたジャイアンとスネ夫にあれこれ巧妙にウソをついては仕返しをする。しかしそれでドラえもんが帰ってくるわけでもなく、気分の晴れないのび太は「ドラえもんは帰ってこないんだから。」「もう、二度とあえないんだから。」と意気消沈して部屋へ戻る。ところがなんとそこにはドラえもんの姿があった! ウソ800の効果により先ほどの呟きが反転した故の結果であった。再会を喜ぶのび太はこう泣き叫ぶのであった。「うれしくない。これからまた、ずうっとドラえもんといっしょにくらさない」
 しかしながら、aikoの「二時頃」の状況はこの「帰ドラ」とは全く正反対である。しかも、「二時頃」はここで終わらないのだ。最後に一番サビのリフレインが待っている。「ひとつだけ思ったのはあたしの事少しだけでも/好きだって愛しいなって思ってくれたから?」と。
 このリフレインが暗に意味しているのは、自分自身に対して放った、禁忌であった嘘が結局は無意味に終わったことかも知れない。すっぱり息の根を止められたのなら曲はこのリフレインで終わることはなかっただろう。恋の断末魔だと書いたが、こうして未練が残り続けているのなら「抵抗」であったあの嘘がそれこそ文字通り「無駄な抵抗」となってしまったのかも知れない。どこをどうとっても、切なくて辛い。それが「二時頃」と言う曲の恐るべきところだ。

■おわりに
 大きく二つのテーマにわけて「二時頃」を考察および読解、解釈などなどを交えてきたが、最後に書いたようにどの方角から見ても切なさと辛さが山盛りになっているこの曲は、けれどもaikoの中でベスト盤入りしてしまう程には人気曲であることは最初に触れた通りである。
 勿論、皆が皆「二時頃」のような体験をしているわけではないが、誰しもに似たような経験があるからこそ響くのだ。それが身近な存在である家族のことであれ友人のことであれ、第一部で書いたように自分から遠い芸能人のことであれ人によって様々であり、あるいは本心を言い出せずに、何かに裏切られた形で自分から身を引いていった思い出を「二時頃」によって思い出す人もいるだろう。
 そもそも恋愛のことだとも限らない。「なくなってしまったものへの哀惜」「諦める切なさ」そういった感情を様々な心の引き出しからaikoは呼び起こしていく。考えてみれば「二人」も、第一部では強い調子だと書いたが、ここにきて考えてみると「一緒に撮った写真の中に 夢見る二人は写っていたのね 後ろに立ってる観覧車に本当は乗りたかった」はうんと切なく聞こえるし、最後のサビリフレインも、本当は哀しい気持ちの裏返しとなって表れたものとも読めそうだ。それに、「二時頃」が描き出す切ない世界は、ひょっとすると日本人の感性としてDNAに刻み込まれているような「無常観」や「もののあはれ」にも響くものなのかも知れない。だからまだデビューして一年も経っていない頃の二枚目のシングル、そのカップリングの末曲であるにも関わらず、今もなお愛されている曲なのかも知れない。
 ところで私は嘘をつくことが「あたし」のイニシエーションだったと言う風に書いたが、最初期の曲にそんな曲を持ってきたのも何か深い意味を感じ取れそうである。「あたし」は恋に喜びながらも最後は傷ついて、嘘をついて、けれども結果として新しい世界へと入ったのである。そこでまた、「あたし」は時に笑い時に喜び、時に涙し、やはりまた傷ついて、けれど前に前に進み続けている。aikoの曲の「あたし」達全員がちょうどそんな風に一つ一つの曲で成長を続けて、また新しく「あたし」達が――きっと今もなお――生まれてくるのであろう。
 歌い手であり創造主のaikoはいよいよ四十と言う新しい世代に突入する。「彼女」の時のような変化が、きっと今まで以上にあるに違いない。「二時頃」並みに興味深い曲も今か今かと誕生の時を待っているであろう。新しい世代へ変わるその時に「二時頃」と言ういろんな意味で問題作である、この大きな曲について、こうしてここでいろいろ書けたことは私的にとても意義のあることだったと思いたい。
 四十歳になったaikoにも、勿論曲や来年には発表されるであろうアルバム、それに伴うツアーにも大いに期待したいところである。まずは年末のLLP18に向けて気持ちを高めるべく、この辺で筆を置こうと思う。読者諸兄も早速各々のプレイヤーを再生しようではないか。曲は勿論、「二時頃」からスタートだ。

(了)



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