■不在の月とこの道と
 そういえば、「17の月」は「月」とタイトルについているにも関わらず、肝心の月は歌詞中には登場しない。いわゆるタイトルロールの不在である。では「17の月」というタイトルの意味するところは何なのか。
 これもはっきりとしたソースはなく、やはり私の記憶違いなのかも知れないが、確か「17回見た月」のことを意味していたはずである。それなのに歌詞には登場しないときている。それなりにaikoに通じているファンなら、先述した通り曲中の「オレンジ」とタイトルの「月」で「オレンジな満月」と言う同じ「月」のつく曲を想起することは容易いが、回りくどい方法である。この曲に関して唯一「月」が登場するのは初出となった下敷き裏面のイラストにのみである。
 フレーズとイラストを眺めていてふと思ったのだが、この曲は「月」よりも「道」が重要なのではないだろうか。「長い道路」「白い線の上」そしてCメロの「この道」――「飛行機」で言うならば「あなたと歩いた(花が宿っていた)道」を指すだろうか。一番サビ、二番サビ、Cメロ、大サビと、あなたと一緒にいた道を「あたし」は回想する(二番は願望だが)おそらくは、もう二度と一緒に歩めない道を。

■少なすぎず、多すぎず
 ところで私がこのCメロのフレーズに惹かれる理由は、「恋人同士だからと言って、同じものを見ているとは限らない」という真理を端的、かつ詩的に表しているaiko屈指の名フレーズだからである。四文字熟語の「同床異夢」(同じ寝床に寝ても、それぞれ違った夢を見ること。転じて、同じ立場にありながら、考え方や目的とするものが違うことのたとえ。goo辞書より)をも思い出すこの歌詞を、aikoが実際何を想い、何を狙って綴ったかは憶測を走らせるしかない。しかしながら、「同じものを見ていても、違うものを見ている」と言う厳しい認識が彼女の中にあることに、私はほとんど確信にすら近いものを持っている。
 ライブに限らず、常に「終わり」を意識しているaikoの目は私達が思っている以上にシビアである。普段のおちゃらけた姿からは想像を絶する冷静さと厳しさ、そして深い洞察力と同時に限りない慈しみが彼女にはある。過去ここや個人誌で発表してきた読解、解釈、考察を踏まえて、改めて今ここでそう断言したい。下敷きの裏面と言う隠された場所ではあるが、先行披露されていたあのフレーズにはおそらく計り知れない意図があったと言っても、あながち言い過ぎではないと思うのだ。いっそあのフレーズから「17の月」が作られたのでは? と訝しんでもいいくらいだ。
 同じものを見ているわけではない。違うものを見ているかも知れない。物事には二通り以上の見方も、感じ方も存在するのだ。ここで思い出すのがあの謎掛けのようなライナーノーツである。「17」と言う数字は、20に近いので多い部類には入るが、15以降の数字で見れば、まだ少ないように見える。aikoの言うように多すぎないと言う表現を使う人もいるだろうし、量の大小ではなく素数だ! とトンチンカンな見方をする人もいるだろう。それはちょうど、月の陰影を餅をつくうさぎに見る民族もいれば、カニやカエルに見る民族もいて、女性の横顔と捉える民族もいるのと同様である。
 aikoのあの言葉は、ものごとには複数の見方があると言うことを示していたのかも知れない。

■ふたつの視点、ふたつの時系列
 物事に複数の見方があるなら、歌詞の中にもまた複数の「あたし」を見出してもいいのかも知れない。あるいは、「複数の時系列」を読み取るのだ。二番の「あたし」は「無邪気」だと私は書いたが、一番Bメロ以降の歌詞にも、無邪気な「あたし」のいた時系列があったのではないだろうか。一番サビやCメロを読むと、「帰りたくなかった」は単純にあたしがあなたとまだまだ一緒にいたい子供のようなわがままにも読めるし、「あなたはあたしより……」もこれもまた単純に――それはある種、哀しいまでに、残酷なまでに――歌詞の通り、あなたはあたしより背が高いからきっとこの道の見晴らしは私よりよく見えてるんだろうなあ、素敵に見えてるんだろうなあと、かつては無邪気に思っていた「あたし」の過去が見えてくる。
 けれども、そんな「あたし」もいつかは疲れ果て、恋は終わりを迎える。一番Aメロでそんな姿を一度見せている以上、それはもはやあらがえない必定である。「あなたはあたしより……」のCメロは曲の中で一度しか登場しないが、リスナーあるいは読者が私のように「恋人同士だからといって同じものを見ているとは限らない」と言う読みの解釈を用意した時、無邪気な「あたし」の時系列は姿こそ消さないが、その無邪気さを、純粋さを喪失してしまった後の「あたし」の時系列がたちまちの内に登場するだろう。「あたしの向こう」の「あたし」のように、この関係が終焉へと舵を切って、しかもそれが加速しつつあることを察してしまった後、と言う物語への分岐がたちどころに現れてくる。
 読解の段落で私は「どこか既に「あなた」から離れてしまっている、少しの精神的な距離を感じさせる風に読める」と書いたが、「同じものを見ているわけではないのだ」と――同じ月を見ている、同じものを見ている、とある種の感動さえ伴って認識していたはずが、「ああ、あなたはあたしより背が高いから、同じ景色を見ているとは限らないんだ」と、その感動よりも、「違い」や「距離」「隔たり」に注目して認識を改めてしまった――そんな読みがどうしても私には拭えない。それは曲のクライマックスが近いCメロと言う配置であることも、音楽的な印象によるところも大きいが、下敷きのイラストに描かれる少女の後ろ姿、あの寂しげなイメージが「17の月」の原風景として私の中に強く印象づけられている為だ。
 この認識を持ってからの時系列で想う「帰りたくなかった」「迷ってしまえ」は恋の延命を願い、祈るもので、そうすると二番の「何度も言」っていた「好き」は、「あなた」をどうしても繋ぎ止めておきたかった「あたし」のある種の呪文のようにも迫ってくる。けれど私達はもう結末を知っている。故に「あたし」の想いの全てが儚くて、虚しくて、なんとも切ないものとして私達にあはれを呼び起こしていくのである。その虚しさをより際だたせるような無邪気な「あたし」がいた過去もまた、やはりリスナーに哀しさを想起させるものとなる。

■あなたが見ていた違う月
 もっと残酷なことを言うなら、17回も何もなく、一度として同じ景色など「あたし」と「あなた」は、共有していなかったかも知れない。見晴らしでさえ違うのに、あたしが見ていた月とあなたが見ていた月が同じだと、どうして言えるのだろう? あなたが捉えていた月はうさぎのいる月ではなく、カエルのいる月かも知れないのだ。
「同じルールの白い線の上」になど、いなかった。いた、と勘違いをし続けていただけだ。後年「あなたを連れて」で歌われるように、「どこかで心が繋がっていると勘違い」し続けることが恋愛の真実ならば――無論、勘違いし続けることは悪いことでも、罪でもない――それに気付いてしまった時、そしてそれを捨てるのに何の躊躇も感じない時、恋という共同幻想はほとんど終わってしまったも同然である。「あたし」はゆっくりとその事実を受け入れていく。それなりに恋を大事にし、守ろうとあがきながらも最終的には傷つき疲れ果て、一番Aメロの「あたし」へと至っていく。それはどこか、二十代から三十代と言う新たな時代に至ったaikoそのものをも比喩するかのようでもある。雑誌にて語った、「あの時とは感じ方も見え方も違う自分がいる」と言う、その言葉の通りに。

■「17の月」の「彼女」
 帰りたくなかった。あなたとまだまだ一緒にいたかった。そう歌ったかつてのあたしが、今はもうすっかり疲れ傷ついたあたしとなっている。過去の恋愛を振り返り、痛みや後悔と向き合うことが多くなった三十歳のaikoが、「現在」と「過去」のあたしという二人の「彼女」を綴った「17の月」は、その「痛みや後悔と向き合うようになった」と言うaikoの内省そのものを表現し、落ち着きのある、けれども同時に、人生のあらゆることに対して疲れを覚えてきた三十代のaiko自身をも示していたのかも知れない。高音を抑えた歌い方は大人っぽく、「彼女」全体から見ても曲調は気怠けで、けれどもどこか優しい。現在のあたしのことも、かつてのあたしのことも、歌い手たるaikoは等しく癒さんとしている風に私は聴こえる。また、夏と言う、一年でもっとも生命力に富んだ季節を終え、やがて秋から冬と言う陰りの季節へ向かう晩夏に発表された作品「彼女」を象徴する一曲でもあると、いち「17の月」愛好者の私としては主張したいところである。

■おわりに
 ところで「17の月」のことを、読解の段落でも書いたユーミンの名曲「14番目の月」のように「月齢17の月」だと最初思った人は私の他にもいることだろう。月齢17は満月に近いので、これもまた、見る人によっては大きい月だと思うだろうし、これからどんどん月が欠けていくのだと悲観する人もいる(後者を採用するならユーミンの「14番目の月」とは正反対の意味になる)そもそも17と言う数字自体がどこか不安定な印象を拭えないから、人によって印象は大いに違ってくる。
 しかし私は思う。別に違うものを見たっていいじゃないか。私達は違っていて当たり前なのだし、違うからこそ人と人は惹かれ合うことは、aikoを愛聴している読者諸兄らには言わずとも知れたことであろう。視点であれ認識であれ価値観であれ主義であれ、その「違い」を認めて、それを乗り越えてでも相手との関係を望むのなら、その心の働きこそを私達は本当の意味で愛と呼ぶのだろう。
「どこかで心が繋がっていると 勘違いしてるあたし」と「最後は一人なんだと 冷めた笑顔の得意な優しいあなた」を歌う「あなたを連れて」は、まさにその違いを暗黙のもとで受け入れて、なお二人が二人で在り続ける曲なのだと思う。「17の月」からおよそ八年後の作品であり、発表時のaikoの年齢は四十という新たな時代を目前にした三十八歳であった。

(了)



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