「ナキ・ムシ」「花火」――動かない恋の行方


 さて他人の曲という枷から脱出して、ようやく本当のaikoの世界へとシフトするのは「ナキ・ムシ」からである。aikoの歌詞もリミッター解除とばかり勢いのあるものになっている。
 単純な文字計算をしてみたらあしたが297文字であるのに対しナキ・ムシは347文字と大幅に増えている。ちなみに曲の時間はたかが三十秒程度の違いである。

「あした」がaikoの理想の恋愛世界と位置付けるのならば、aikoのメロディを取り戻した「ナキ・ムシ」は理想より下位にある現実の恋愛世界を描いていると言えよう。

 aikobonでも、aikoとプロデューサー側との和解から「シングル候補を作るんじゃないんだ、歌いたい曲を作らなくちゃいけないんだ」と理解したaikoが「気にしなくていいんだなあって思って。好きなものを作ればいいんやって思って」と自分の欲求に素直になるように書いていることから、そう見てもあながち間違いではないであろう。

「泣き虫だしいい言葉も並べられない/笑顔も下手だし不器用だけど」「泣き虫だし心配だし/心苦しい夜は孤独(ひとり)で過ごす事も出来ないけれど」と弱さを吐露しているし、(aikobonによると、よく泣くという自分の生活そのまんまを表しているらしい)
「唇の端から端まで/まっすぐに見つめてみたら/ゆるい目眩おそう」と彼女のフェチシズムを表しているとも見れるフレーズもある。
 いうなれば、「あした」でそぎ落とされた無駄な部分である。
 まあ、ナキ・ムシの醍醐味である部分を無駄と言い切るのは少々勇み足すぎるし私も嫌いだ。理想というのは往々にして無駄の無いものであるが、現実には無駄が多すぎ、かつ無駄がないと機能しないものである。

 閑話休題。

「ナキ・ムシ」は現実の恋愛という位置にあり、aikoはそこで何を歌っているかというと、私の解釈ではやはり理想=「あなた」との恋を成就させること、それを叱咤する「あたし」ということにしている。
「泣き虫だしいい言葉も並べられない/笑顔も下手だし不器用だけど」と現実の不利な点、自分の弱さをまず歌い、それでも「苦しい程の気持ちを誓う」としたたかに愛を告白しているのだ。
 しかしそれはあくまでも「誓う」、過去助動詞も完了助動詞もつかない、孤高の存在である終止形、つまり時制の中で止まったままなのだ。
 この歌の中では永遠に自分の中を出ていない。二番でも「誓え」と命令形で叱咤するが、「ナキ・ムシ」は何ら動きを起こさない曲なのだ。
「手に触れる勇気があれば/少し近くにゆきたい」「気付かないふりしているのならば/思いきり抱きしめてみたい/胸が鳴る音を届けに…」と願望形で止まるのも、これがまだ「あたし」の外を出ていない恋、つまり片想いだからなのだ。
 勿論、「あたし」もこの恋をそのまま終わらせようとはしていない。「ゴメンだよって言われたって もう怖くない」と言っているのだから、告白する気はあるのだ。しかし、全ては寸止めで終わっている。
 ここまでを振り返るとやや否定的な見方が目立つのだが、私は「ナキ・ムシ」を否定したいのでは決してない。この曲の美徳は未来が決定されていないことにある。むしろ恋が上手くいくかどうか、瀬戸際の高揚感を情緒豊かに歌い上げているのだ。

 もし「告白前にaikoの曲を聴いて勇気を出すにはどの曲がいいか」と言われれば私は間違いなく、
 この「ナキ・ムシ」を捧げるであろう。
 どんな女の子だって
「泣き虫だしいい言葉も並べられない/笑顔も下手だし不器用だけど/苦しい程の気持ちを誓う」
 ことが出来るのだから。


 ところで以前どこかの掲示板で最初の三行「この部屋で5分の出来事/白い影が消えては映す/ガラスの赤い光」がわからないという書き込みを見たが、正直なところ私も見解を出しづらい。
 ……と思ったら困ったときのaikobon。どうやら彼女は「歌詞は加湿器の湯気を見てできた」とのことなので、白い影=加湿器の湯気? という見方が出来そうである。「ガラスの赤い光」に自分なりの解釈を付け加えるならば、「あした」世界に現れた「燃える赤い花」の出現=aikoの理想の投影と出来るだろうか……。




 さてaikoがブレイクするきっかけとなった「花火」だが、この歌詞については、ぐうたら雑記館さんの「小説の面白さ 実践編―aiko「花火」論」にいたく感銘を受け、この論を読まなかったらそれほどaiko歌詞文学に興味を持たなかっただろうと思えるほどの傑作であり、従ってあまり自分の見解を打ち出したくない、むしろぐうたら雑記館さんに全面賛成であり、そちらを参照して頂きたいくらいなのだが、「ナキ・ムシ」との連動で解釈していこうと思う。


「花火」は「ナキ・ムシ」より更に文字数が増え約643文字、つまり「ナキ・ムシ」の約二倍の長さになっている。それでいて「ナキ・ムシ」より四秒短いのだから相当歌いにくい曲であるが、多くのaikoファンは「カブトムシ」と並んで「花火」を聴いてaikoを知ったと思われ、愛されている曲でもあろう。二〇〇四年のオリコンスタイルによる企画「2万人が選ぶベストアーティスト」で第二位となったaikoだが、その時の人気投票では堂々第一位を獲得した。

 さて「ナキ・ムシ」の連動で解釈すれば、この「花火」で歌われる恋愛もまた「動かない恋愛」である。
 曲の中で何度も繰り返される「花火」はおそらく「あたし」の恋心であり、それが「今日も上がらない」と言われるのであれば、つまり告白出来ておらず、あげくには「三角の目をした羽ある天使」に「疲れてるんならやめれば?」と言われる始末。
 さらに「涙を落して 火を消した」ということはつまり、この恋を諦めることを暗に示している。
 もうひとつ、「胸ん中で何度も誓ってきた言葉がうわっと飛んでく/「1mmだって忘れない」と…」とあるが、「忘れない」というフレーズから読み取れることは、想い人である「あなた」という存在が何処かへ行ってしまうことを示している。
 簡単に総括するならばこの曲は、恋の終わり際に立たされている曲なのだ。「動かない恋愛」という卵は孵ることのないまま時だけ動かされ、「あなた」が離れるという外的要因によって、終着点まで至ろうとしている。

「夏の星座にぶらさがって」いる「あたし」は、本来なら見上げるべきものである「花火」を「見下ろ」している。憧れと畏敬の念を持って人は空の花火を――花火ではなくとも星々や月や太陽を見上げるものである。それを「見下ろす」ということは、その字面から思い浮かべられるように冷静に、また首を下げることでどうしても体全体が下向きになった状態でこの恋を観察しているということになる。そうすれば自然と陰が出来てしまう。

 冷静に、と書いたが、「たしかに好きなんです もどれないんです」と想いを認め、戻れないと煩悶しながら、
「涙を落として火を消した」り「最後の残り火に手をふった」りしている「あたし」の行動には矛盾が多い。一体誰が本当の「あたし」なのか? と疑問に思うが、言ってみれば答えは簡単である。

 ぐうたら雑記館さんと同意見になるが「あたし」は分裂しているのである。
 恋を捨てきれない「あたし」と恋を諦めようとしている「あたし」それを歌う「あたし」……お気づきの方も多いと思うが、この「花火」には「あたし」という名詞はたった一度しか登場しない。叙述トリックめいたことになるが、最初から確固たる自分などほとんど存在しない曲なのだ。

 しかし最後に置かれたフレーズは「最後の残り火に手を振った/夏の星座にぶらさがって」であり、外的要因も含めてこの恋を観察し判断を下そうとしていた「あたし」は結局そちらに傾いてしまった、ということだ

 プライマリーブリッジの部分では「赤や緑の菊の花びら 指さして思う事は/ただ一つだけ そう一つだけど/「疲れてるんならやめれば…」/花火は消えない 涙も枯れない」と先にあなたへの強い想いが提示されているが、それを打ち消すように「疲れてるんならやめれば」が挿入される。これが逆だったら、「花火」という曲の未来は若干明るいものになっていたかもしれない。

 ああ、切ない曲だなあ。

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