■相手のわからない「星電話」――「蒼い日」を少し参考に
以上ざっと「星電話」について読解を進めてきた。食わず嫌いしていた歌詞だったが、バラしてみると結構シンプルなストーリーだったので何となく一安心である(?)
ここで後回しにしていた疑問を今一度考えてみたい。最初に「星電話はあたし側からの発信」と書いたが、一体誰に向けて星電話なるものを掛けているのだろう? 加えて、「繋いだ」と歌うものの――それは「本当に」繋がっているのだろうか?
歌詞の情報だけでは何とも頼りない。叙述トリックめいた話になるが「繋いだ」と書かれているだけで実際は繋がっていないのかも知れない。でもそんなところを疑い始めたらaikoだけでなくあらゆる歌手の曲がひっくり返るのであるけれど、何となーく壁打ちで話しているというか、相手がいないのに電話を掛けて、誰もいないところに無理くり繋げているような気がする。「星電話」が造語であることも、その考えに余計な拍車を掛けてしまう。
それにとかく相手が不明瞭である。無難に考えるなら、他の曲と同じように「あなた」に向けて掛けていると読むのが妥当なのだが、「相手がいないのに」と先述したように、「あなた」でなくても読めてしまう。それこそ谷山浩子の「銀河通信」のように、百億光年離れた星にいる見知らぬ誰かでも通ってしまう。唯一の「電話」を冠した曲ながら、別に「電話」でなくても、もうぶっちゃけいいのでは? とまで思ってしまうのだ。電話登場曲詳細で見た通り、通話をしているのではなく回想しているに近いのだし。
再びここで数少ないaikoのインタビューからヒントを得ようとすると、aikoはこの曲も遠距離恋愛の曲だとオリコンで話している。もう「もしや……「恋道」と間違えていませんかaikoさん」と冷静に突っ込みたくもあるが、遠恋でないと頻繁に電話を掛けることもないなーと納得出来なくない。電話しながら星を見てたんだろうかなんてロマンチックに考えることも出来るし、その見ていた星と星が本当に二人を繋いでいて、それで星電話と解釈するのもわからなくない。何となくしっくりくる。
そして、今それを繋いだからと言って本当に繋がるかどうかはやはり疑問である。もう電話の向こうにあなたはいない。あなたとの繋がりは切れているのだから。そして残るのは、あの時も今も変わらずある星のみとなる。最新アルバム「May Dream」の最後の曲「蒼い日」に登場する、「あたしたち」を見ていたあの「一番星」ではないが、二人を知っているのは星達だけで、あたしの嘆きを聴けるのもまた星達だけだ。そう言う意味で「星電話」と解釈しても面白いかも知れない。
■電話を冠したのはもしかして
ところで電話登場曲詳細を書き、曲中での電話の役割もつぶさに調べていてふとこんなことを思った。
「もう電話と言うだけで大体のイメージはあるよなー。電話かかってくるの嬉しいし、喋るのも楽しいけど、相手からの電話がなくなったらあー別れたんだなって寂しいし、喪失感すごいし、繋がらなくなったら悲しいし、電話見るだけでも切なくなりそう。掛けても出ないんだろうなって思うのもやんなるなあ」
そんなことを思って「星電話」と言うタイトルを見たら、こう閃いた。それは、「「電話」と言うものに対し持つイメージを、曲と共に想起させるためのタイトルだったのでは?」と言うことである。電話が持つ意味や役割、それが呼び起こす感情を狙ったのだとすると、たとえ曲中に実際の電話が出てこなくても、もうタイトルに付けられた時点で、曲名がわかった時点でこの曲の「電話」の仕事は終わっているのである。あれこれ考えようとすること自体がもしかして蛇足だったりするのかしら? でもそれってどうなんだろう、と思わなくもなく、こんなのは論議を投げ出した極論に近いのだが、案外aikoもそういう意味でつけた節があったりして? と思うと完全に否定出来ないところがこわくもあり、面白くもある。(ほら、恋のスーパーボールだってスーパーボール出てこないしね?)
■終わりに ―電話がこれからも登場しますように―
長々と書いてきたが、内容がしょぼいわりに存外長くなってしまっているのでこの辺でこの研究を締めくくろうと思う。
aikoがデビューした一九九八年から十八年、二〇一六年のコミュニケーションツールは冒頭に書いた通り今やすっかり変わってしまった。メールや、それに代わるLINEがすっかり一般的になって、誰かに電話を掛けることなどもはや稀中の稀になってしまった。でも、だからこそ電話での会話がよりレアリティの高いものになってきていることも、また納得出来ることだろう。
そして今のメールやLINEが一般的なのと同じように、かつては電話でのコミュニケーションが何よりも一般的だった時代は確かにあって、その全盛期とも言える頃にaiko青春時代を過ごしてきた。そしてその頃に、初めてaikoは曲を作った。その記念すべき第一作の「アイツを振り向かせる方法」であたしがアイツにすることは、手紙を出すことでも直接会いに行くことでもなく、「電話」をして「素知らぬ顔してお喋り」することであった。稀代のラブソングの語り手であるaikoの中で、「電話をする」と言う行動や「電話が掛かってくる」と言う出来事は、たとえ本人がメールなりLINEなりに移行していても、忘れ得ぬ恋のときめきが記録されている、恋愛の原風景の一つなのだ。
二十一世紀に入って十数年が経ちながらも、やり方はとかくアナログで、基本的には声だけしか届けられない。周りではどんどん新しいことが増えているが、電話はマイペースでそんなに劇的に変わることはない。せいぜい、携帯電話が普及して、わりといつでも、どこからでも掛けられるようになったくらいで、電話の持つイメージは、あらゆるツールが進化に進化を重ねていく殺伐とした現代社会において、どこか牧歌的ですらある。aiko曲の電話登場頻度を見てみても、減少傾向にあるのは仕方がないことかも知れない。次のアルバムが出るまで、そして出ても、時のシルエットのタームのように一曲もない可能性は残念ながら高い。
けれど、電話の持つ特別な意味は、この世の中において、なかなかどうして、まだまだ捨てたものではない。そしてaikoがまだ電話を愛している限り――その愛はきっと、なくなることはないと思う――まだまだ電話がキーアイテムとなったり、あるいは何気なくひょっこり出てくる曲が世に現れる可能性も、また高い。
叶うならば、電話が恋愛に齎す甘酸っぱさや切なさ、寂しさや悲しみさえも、電話を良く知らない次世代のリスナー達に伝えていって欲しい。二十周年も見据える距離に入ってきた十八周年を祝うこのシーズン、aikoのますますの活躍と作品の充実を願ってここで筆を置くこととしたい。
(了)
*余談であるが、本稿のタイトルは筆者が卒論を書く際に大いに役立った、NTT出版「日本人とてれふぉん 明治・大正・昭和の電話世相史」から拝借させていただいた。20年以上前に出版されたものだが、日本や世界における様々な電話や電話の文化、歴史、社会での立場などについて読みやすく、またユーモラスにまとめている一冊であるので、電話に興味のある方におすすめしたい。