■ただの敗北に終わらない 「赤いランプ」と「あたしの向こう」の大サビ
 ここで、もはや忘れているのではあるまいかと思われていそうだが、「赤いランプ」の大サビ読解へと大胆に舵を切ろうと思う。と言うのもわざわざ「赤いランプ」大サビ読解を後回しにした理由は「あたしの向こう」の大サビにあるからだ。本論はあくまで「赤いランプ」読解のつもりである。
 ざっと確認するが自分の臆病が遠因となって別れを迎えた「あたし」は二番終わりで「強く涙を拭い」て未来へ向かっている。そして大サビはこんな風に始まる。「たまにあたしを思い出してね」と。
 その始まりから「そして小さな溜息と肩を落とし切なくなってね」と、「あなた」への捨て台詞のような言葉が続くのだ。「私一人が落ち込むのは許さない! お前も落ち込め!」と凄まれているようなものであり正直「おっかねー!」と思わなくもない。(まあ大体aikoの曲ってちゃんと読むと「おっかねー!」案件が多いのだけど)嫌なことをされると「ちょっと風邪引いてしまえばいいのに!」「足の小指を角にぶつけてしまえばいいのに!」とかつてどこかで言っていたように、やられたらやり返す、したたかなaikoらしい歌詞と言えばこれ以上にらしいものはなかなか無く、実は私が赤いランプで一番好きな箇所でもある。
 が、もっと肝心な箇所は次である。「長い月日が経っても アザとなり残る記憶」――記憶に、アザのように黒々となるくらい残ればこっちのものであり、「アザ」なのであるからある意味では痛みを伴って「あなた」の生涯に残り続ける。すなわち、「あなた」と共に関係が断たれたはずの「あたし」が生き続ける――なんて書くとまるで「呪いかよ!」と思わず突っ込みたくもなるが、幾分怖い(と言うよりはそれこそ先述したような「おっかない」)風に書かれているのは「赤いランプ」の「後悔」の裏面としてある、怒りに近いような「悔しさ」が表れているのかも知れない。でもその怒りの矛先は「あなた」よりむしろ「あたし」自身に向けられているのだろう。この部分は「負け犬の遠吠え」と揶揄することも出来るかも知れない。この大サビを締めるのは一番と同じく「黄金色の今の空は何も知らない」であるが、遠吠えする犬の背景に相応しいと言うのはちょっと言い過ぎというか、ロマンに過ぎるだろうか。記憶として残るかどうか、その呪いの行方も空は知らないし、我関せずでのびのび広がるばかりだ。だが空が知らないくらいどうってことはないように、曲は強く激しく終わりを迎える。
 対して「あたしの向こう」の大サビはどうか。「さよならなのはわかっていたけれど わからないフリをしていたんだ\あなたと一緒に考えた悩みも涙も\今はひとりでやれるよ」と別れを受け入れていたことを明かすところから大サビは始まっている。(超絶関係ないが、「今はひとりでやれるよ」に「さようならドラえもん」の最後のコマののび太を思い出してしまうのは私が軽度のドラえもんオタクだからかも知れない)
 私が赤いランプ二番終わりの読解で「「あなた」なしでもこれから生きてみせる、そんな風に誓いを立てているように思える」と書いたのは実はこの「あたしの向こう」の歌詞があった為である。「知らないままであがいてみたんだ」が「わからないフリをしてたんだ」に変わっているが、深く突っ込むと――もしかしたら「あがいてみた」のは嘘だったのかも? と思わせる。いい加減長くなり過ぎているので簡潔に書くが、「あがいて」いたとばかり「あたし」自身も思っていたけれど、本当は何も出来ず、いや、「せず」に、二人の関係に別れを齎しに来た死神に知らぬ存ぜぬを突き通したのかも知れない。しかしそれはあくまで「フリ」でしかなく、別れの運命は「あっそう」とばかり残酷に鎌を振るのである。一聴すると「抵抗」の物語である「あたしの向こう」は絶対的な運命に従わざるを得ない「敗北」の物語であったのかも知れない。だが、私は書いた。ただの敗北では終わらないと。
「赤いランプ」の大サビと比べてみて、ある共通点を見逃さない人はいないだろう。「あたしの向こう」は奇しくも「赤いランプ」とは逆の言い方で、全く同じことを願っているのである。その箇所はラストの一節である。「これからの朝これからの夜たまには思い出してもいい?\あなたの心に変わった形のままでもいいから\いられたなら」――そう、赤いランプでは「たまにあたしを思い出してね」で、「あたしの向こう」では「たまには思い出してもいい?」なのである。
「あなたの心に変わった形のままでもいいから\いられたら」――形は違い、アプローチは逆でも、「赤いランプ」の「あたし」も「あたしの向こう」の「あたし」も、「あなた」の心――記憶に残ることを望んでいる。それこそが運命に対して私達が持てる、唯一の抵抗手段であり、「勝利の条件」なのだ。








■消えない事実 変わらない歴史 奪えない思い出

「誰も消えはしないよ」
「きみが、憶えている限り」
「そうだよ。
 あたし、消えたりしない。
 あたし、ここにいるんだ」
「あたしたち――」
「死んでしまったとしても。
 たとえ、誰かの影だったとしても」
「ここにいる。
 ここにいるんだよ」
(Liar soft/桜井光「紫影のソナーニル –What a beautiful memories–」より)

「赤いランプ」との類似点は今回の考察で歌詞を比較した時にようやく気付いたのであるが、「あたしの向こう」発表当時、歌詞を耳コピした時に思ったのだが、「変わった形のままでもいいから\いられたら」と言う部分を受けて、「シャッター」の「あなたとあたしの目の奥に生きる二人が 同じ笑顔でありますように」や「シアワセ」の「あたしのこの言葉が唇をまたいでいった後 意味を持ったままあなたの胸に残ってます様に」や「Loveletter」の「愛しい言葉をどうか あなたが今も思ってくれてます様に」を思い出していた。二人が別れても、双方で思い出の中に残ることを望んでいる。それは「こんなに切なくなってるんだからあなたもそうなってよ」とひがんでいる「赤いランプ」においても同じことだ。失恋しても相手の中に忘れ得ぬ記憶として残るのならば、それは大勝利なのではないか。耳コピ歌詞を書いたブログで、私は既にそう書いていた。
 思い出や記憶は現在の干渉を受けない、一種の永遠性を保つ世界である。勿論美化され、誇張され、あるいは捏造されて過去の事実とは異なる様相を示していくものでもあるが、思い出は誰にも奪えないし、誰も否定することは出来ない。思い出をよすがとして生き続けていくこともしばしばだ。儚くも忘れ去られるものであることも同時に知りながら、それでも、だ。たとえ忘れ去られても、どちらかの記憶から消えたとしても、二人が恋人であったと言う過去の事実は変わらない。変わりようがない。時は残酷であり脆くもあり、しかし同時に強く優しくもある。
 確かに「赤いランプ」に続く「海の終わり」で「いつかは離れてしまう」と永遠を否定している。aikoは各インタビューなどに於いても度々「忘れられていくこと」への強い不安や臆病さを明言し、「どんなものでも終わりは来る」と言う無常観を隠すことをしない。それはaikoの幼少期の体の弱さからくる死への恐怖や、一時期別居していた両親の問題に依るところが大きいのだと思うが、しかしaikoは同時に語る。形あるものは崩れる運命であるからこそ、目いっぱい楽しむことを。忘れ得ぬものにすることを。記憶に焼き付けることを。それは――歌詞研究で結局何度もこのオチに着地しなければならないと言うことに苦笑を禁じ得ないが――私達が彼女と見える場であるライブで最も端的に表されているのではないだろうか。私が綴るライブレポも基本は「私自身、ライブを細部まで憶えていたいから」と懸命に詳細に書くのであって、レポを読めばあああったこんなこと、と記憶はその度に想起され、その度私はaikoに会いに行ける。記憶の中の、永遠のaikoに。
 何もこれはaikoに限った話ではない。時間と言う神はあくまでも残酷であり、気を緩めれば人生の何もかも全てを奪い、砂時計の砂に変えていく。その力は圧倒的だ。けれどもそれで全ての私達がなすすべなく敗北を迎えるわけではない。なすすべはある。それは覚えていること、記憶すること、思い出を持つことだ。人間が時間と言う神に対抗しうるにはそれしかなく、そしてそれを持ち続ける限り、私達は勝利の明日を迎えられるのである。


■終わりに
 一応あくまでこの稿は「赤いランプ」読解のつもりであったのだが、何だか風呂敷を広げ過ぎてしまった。と言うよりは小さいと思っていた風呂敷が予想以上に大きかったと言うところであるが。程ほどに長くなってしまったので、「赤いランプ」を始めとする「考察」と言うことにしておこう。相手の記憶に残ろうとするタイプのaiko楽曲と言うものも集めて見ていろいろ語れれば面白そう、むしろ昔からかなり興味のあった議題なので今後の目標の一つとしておきたい。
 しかしながら、読解も大詰めになりさてそろそろ執筆するかと言う頃になって重大なことに気付いてしまったのだ。それは何故かふと頭に「アイツを振り向かせる方法」が浮かんだ時である。いや、「あたしの向こう」や「赤いランプ」の歌詞を読んでいて想起してしまったと言うのが正しいのであろうが、この曲の大サビは下記の通りである。

「雨が止んで虹が出た時きっと アイツはあたしを思い出す
 それまで気長に待つとしよっか 十年でも 二十年でも
 ずっと ずっと ずっと 待ちましょう」

 末尾まで来て今更「アイツを振り向かせる方法」について長々と見ていくことはしないが、「思い出す」と言う部分で「ああああーっ!?」と驚愕したことは、ここで正直に書いておく。「アイツを振り向かせる方法」はaikoが初めて作った曲の一つとして名高い曲で、限定生産だった「桜の時」のカップリングにのみ収録されているので新規の方にとってはそこそこレア音源かも知れない。
「初めて作った」曲にこのような歌詞が残されているのがミソである。歌手として作品を生み出した時から、彼女のスタンスはこうだったのである。たとえ「あたし」がフラれた側だろうと、「相手の思い出に残ること」が、「あたし」達にとっての勝利の条件なのだ。「アイツを~」を書いた時、aikoはまさか自分がデビュー出来て、しかも十七年も歌手をやっていけるとは思っていなかっただろうが、彼女の瑞々しいその姿勢は二十年以上先にも生きている。最初からこうなのだから、言うなればaikoの「あたし」達の定義の一つでもあるだろう。
 デビュー十七周年を迎えますます勢いを増していくaiko。これからも彼女の描き出す「あたし」達の物語に、大いに期待したいところである。

(了)

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