■小さな恋から大きな世界へ
 っておい。ちょっと待てと。
 さっきから神様だとか何だとかいくらなんでも世界が膨大に広がり過ぎではないだろうか。歌詞そのものに立ち返って考えるなら「青い光」に描かれるのはあくまで「僕」と「君」と言う二人の少年少女の淡い恋ではないか。それがどうしてやれ神だの世界だのと発展してしまうのか。これじゃほんとに無垢な恋そのものを崇め奉っているようなものじゃないか。
 マア書き手であり読み手である私がそういう、ミクロなものにマクロを当てる、大袈裟な表現が好きだからっていうのが第一に挙げられる、実につまらなさすぎる理由なのだが、でもよくよく考えてみてほしい。aikoの歌詞に表される世界は、恋と世界(宇宙)の繋がりが非常に強いと思うのだ。aikoの世界には「あたし」と「あなた」もしくは「僕」と「君」の恋愛が至上であり、この二者の恋愛問題に比べれば、世界平和も戦争も貧困も差別も、明日の夕飯の献立もおこづかいの使い道も休日の予定も、到底些細な問題なのである。
 私はいつだったかこうぼんやり思ったことがある。「aikoはミスチルみたいな歌は書かないだろうなあ」と。ミスチルファンの人ごめんなさい、別にaikoもミスチルも悪く言っているわけじゃないし、しかもミスチルのことははっきり言って詳しくない。ミスチルは記号のようなものとして引用したに過ぎない。それは、「恋愛に留まらないでもっとグローバルな視点のある歌を歌える」人達としての記号だ。うーむ、ミスチルじゃなくて、ジョン・レノンを引用すれば良かったかもしれない。
 aikoにはいい意味で「大きな問題」は歌えない。aikoにあるのは恋愛だけだ。もしaikoが世界平和を訴えるような曲や自然環境を守ろうと呼びかける曲を出したとしたら、私は「こいつおかしい宗教にでもはまったか」と思うことだろう。いや、多分それでも聴いてると思うけど。そもそもそんな社会性の強い歌って最近のヒットチャートにあるのか? なので、もう少し縮小して、かつ普遍的に言うなら、人生の悩みとか苦悩とかを払って応援するような歌……だろうか。
 後々取り上げる「ラジオ」やaiko文学で扱った「三国駅」や「ホーム」のように全てのaiko曲が恋愛を扱っているとは限らないし、それはaikoの見方や可能性を狭めてしまう危険なステレオタイプなのだが、aikoの曲が作り上げる世界はおおむね恋愛が至上なのだ。全てなのだ。セカイなのだ。
 少年少女の可愛らしい小さな恋と愛が、そのまま世界を包み、宇宙になる。「心に乙女」で書いてみると、「あたし」は「宇宙の隅に生きる」小さな存在だがその胸に宿るのは、時に宇宙規模にも拡大する可能性を秘めた「大きな愛」なのだ。その下に、無数の「あたし」達は生きている。


■とある一つのセカイ系
 他人からすればとるに足らない少年少女の小さな恋が、そのまま世界という大きなものに繋がってしまう。だから、aikoはある意味「セカイ系」アーティストと言えるのかもしれない。尤も、セカイ系作品のように全世界の運命を左右してしまうような大事にはならないし、専門家から言わせればそれは違うと言われてしまうものなので脆い意見だが、一応そう書かせてほしい。
 恋愛と世界が繋がり、恋愛至上に走り過ぎ「あなた」と「あたし」以外どうなってもいいと言うような危ない歌もある。「世界中敵に回しても」と歌うデビュー曲の「あした」がその最右翼だと思うのだが、どうだろう。何かのアポカリプスを経てきたような攻撃的なサウンドと、歌い方にどこか退廃的なイメージもあってaikoの中では「あした」が一番セカイ系な曲のような気もする。「青い光」の「君を包むこの両手の先に余った 場所に吹く風はしびれる程冷たかった」と言うワンフレーズでも、「君」と「僕」の世界は安らげるものだが、その先にある「君」と「僕」以外の世界は冷たい=厳しいと言うことをなんとなく感じさせる。
 脱線した。重要なのは、取るに足らない些細なことが、観測者たるaikoからすれば深い意味を持ったり、それこそ世界観を変えてしまうようなことに見えたりするかもしれないことだ。振り返ってみれば「青い光」の空の見え方の変化にしたって人にとってはどうでもよかったり、そもそも気付かなかったりするものだろう。
 恋だってそうだ。人にとっては、例えば終わった恋のことなんかどうでもよかったりするかもしれないし、恋の始まる瞬間をわざと流したりするが、aikoはそうではない。たとえ四十を迎える頃になっても、恋について考える時、歌を創り出す時は、彼女の中の世界観が常に更新され、想いは蓄積されていく。少年の目に映る「世界の変化」を瑞々しく、なおかつさらりと描いた「青い光」はそうした観測者かつ創造主としての彼女も、私に感じさせてならないのだ。


■おわりに
 書いてきてなんだが最後のセカイ系に関するくだりは正直「青い光」からちょっと離れてるので蛇足だと思う。が、aikoの曲が恋愛ばかりだからと言って、その底が狭いと言うことではないことをちゃんと自分の言葉で自分が明らかにしたかったから、書いてしまった。読者の皆様にお付き合い頂いて申し訳ない。
 考察を進めるうちに、もしかすると「青い光」を歌う度、aikoの中で世界は新しくなるのではないか、と、時々推測するようになった。ロック曲が主体となるLLR4で歌われた際は「自分の中でも思い入れがあって、すごく重くて」「悩み事がある時に聴く」と言っている。(DVD「ポップとロック」収録)十五周年記念のツアーで歌われたことにも、彼女にとっては大きな意味があるのかもしれない。
 青い空を見上げた時、遙か遠くにいるaikoを、私はふと思う。aikoも何かあった時は空を見上げているかもしれない。……そんなもしもに過ぎない、遙かな距離を超えて繋がる一瞬の邂逅はどこか、彼女のライブに似ているような気がする。
 善き青空の下、彼女の目は何を見ているだろう。その空は、いつも以上に綺麗で儚く見えているだろうか。願わくばそうあって欲しい。いくつ歳を重ねても色褪せることなく私達を魅了する世界を、これからも歌い続けて欲しい。作り続けて欲しい。
 新しい歳を迎えてこれからまた変化していく彼女を、善き青い光の下、「青い光」の「僕」のような好きと切なさを抱き、追い続けていく所存である。

(了)

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