あたしの旅は続いてく -aiko「えりあし」読解-



■はじめに
「えりあし」は2003年11月6日に発売されたaikoの枚目のシングルである。発売した晩秋の冷たさに染みる切なさ溢れるバラードで、aikoのバラードの中では、あくまで筆者の体感ではあるが、正直カブトムシを凌ぐレベルで人気が高いように思われる。この曲を聴いて泣いたと言う人も多いだろう。かく言う筆者もこの曲で一生分くらいの涙を流したものだ(なお発売当時に泣きまくった所為か、それ以降「えりあし」で泣くことは少なくなった。とにかくそんくらい当時泣きに泣いた、と言う話)
 かつての想い人を、長い時が経てもまっすぐに想い続け、いつか再会の時が来れば笑って声をかけよう──悲しく、切なくありながらも、それに裏打ちされた前向きな歌詞は演奏の効果もあってどこか壮大であり、ライブで歌われる際もここぞ、というところで歌われる印象がある。後に触れるが、aiko自身も気に入っているバラードゆえ、他のバラードよりもライブで歌われる度合いが高い気がしてならない──スターをもっと歌ってくれという個人的な願望込みでの見方であるが。
 発売から17年という時が経ちながらも、支持の厚い名曲であるえりあし。しかし発売時は強豪多くオリコン初登場5位と言う微妙な位置にランクインすることとなった。当時、まだシングルでオリコン1位を取れていなかったゆえになんでじゃ~! と非常に悔しがったものだ。17年前ともなると実に懐かしく思う。あの頃はまだギリギリCDが売れていた時代であった。
 しかしながら、先述したようにライブでの歌唱回数も他のバラードと比べると多い方であるし、ベストアルバム「まとめⅠ」の最後を飾ってもいる。カブトムシほどではないが、音楽番組で歌うこともあるためか、一般での知名度もそこそこあるような気がするし、長く歌い継がれ愛されている(やはり)名バラードと銘打っても問題ないと私としては思う。


■生きていてくれるなら
 筆者はえりあし発売当時高校一年生だったため、自由に使えるお金は乏しかった。そんなわけでその頃のaikoのインタビュー掲載雑誌はほぼ買うことが出来ず、当時の資料はほぼ所持していないと言ってもいい。(ネットもほぼ使えない状況だったので、どの雑誌に載っているかすら把握出来ていなかったように思う)(HPやSNSで情報を仕入れる今となっては、あの頃ってどうやって情報追ってたんだ? などと考えてしまう)
 そのためほぼ唯一の資料であるaikobonのライナーノーツを参照し、「えりあし」に込められたaikoの想いを読んでみることにした。
「ミックスのときにちょろっと泣いてしまいました」と、冒頭で告白している。aikoが泣くほどの曲なら、多くの人の涙を誘うのもおかしくない話だ。

「私は好きな人と別れることがあってもそれは今生の別れじゃないと思ってるし、この世で元気に生きていてくれるんなら、またいつでも会えると思ってるんです。次に会ったときに、あのときの感情はもう失っていても、また新しい気持ちが芽吹いていると思うんです。だって、一度は心の底から大好きになった人やもん。だから、できた曲なのかな? って思います」

 別れることがあってもそれは今生の別れではなく、生きている限りまたいつでも会える。少なくともその可能性はある。新しい関係だって築いていけるかも知れない。これは「えりあし」に限った話でなく、他のaiko曲にも時折見られるaikoの哲学の一つである。
 今年度前期に取り上げ大いに文字数を割いた「ひまわりになったら」も該当するし、再会を期待してしまう「自転車」や遠くからかつての恋人を想う「4月の雨」もこの路線にあると言えよう。死別ではない。恋人という関係性は終わっても、お互い生きているのだから、二度と会えないなんてことはないし、恋人ではない別の何かになれる。時々思い出して想いを馳せたっていいのだ。
「また新しい気持ちが芽吹いている」──aikoのこの言葉は、恋人や大切な人と別れた全ての人に贈るささやかな願い、祈りである。裏返せばある種、相手をいつまでも追い求めてしまう、少しでも情の名残を持っておきたい人間の浅ましさと言うか、人間くささでもあると私には思える。まあそれを言ってしまうと元も子もない、と言うかさすがに情緒のないことではあるが、でも、本当にそうだったらどんなにいいことだろう、とやはり思ってしまうし、aikoがこう強く言ってくれて、曲にしてくれることは心強く思うし、一つの救済や拠り所だと思うのだ。
 新しい気持ちが芽吹いていて、別の関係性を結べるかも知れない。そんな風に思ってしまう人はきっと少なくない。そんな中で「えりあし」と言う作品は、あくまで「もしも」の話であるけれど、曲の最後に感動を誘う壮大な演奏で、五年後の未来、二人が再会したいつかをほんの少しだけ見せてくれる。
 厳しいことを言えば、主人公であるあたしにとって都合のいい未来、とも言える。だけど、こうやっていつか、かつて好きだった人と再会出来たなら、と私達は想像してしまう。それは甘美な夢であって、やはり一種の救済だ。
「えりあし」が支持される所以の一つを、私はここに見出したく思う。そうやって、誰かと再会出来たら。誇れる自分で声をかけられたら、笑うことが出来たなら……そこには新しい物語が、関係がきっと生まれていることだろう。長い人生、大切な人と別れざるを得ないことはきっとある。誰しもに共通するその別れへの慰めと、同じく共通するであろう再会への希望を掬い上げるように歌うのが「えりあし」なのだろう──と、まだ序盤なのに何故か結論めいた文章を綴ってしまった。しかしながら、そう大きく間違っている考察ではないと思う。


■悲しみながら前を向く
 aikoの言葉はまだ続く。次に述べられるのは、aikoがこの「えりあし」で涙していると言う話だ。

「いまだに悲しい思いをしたりしてこの曲をそらで歌ったりすると、涙が出てくる曲なんです(笑) 歌詞の“5年後あなたを見つけたら~”っていうところで。あぁあ、落ち込む。この文章がせつなくて。って自分で言うなよ、って感じなんですけど、悲しい言葉だなぁって。もちろん前向きなんですけどね」

 いまだに。aikobonが発売されたのは2005年春だが、既に「えりあし」発売から2年近く経過しているにも関わらず、「えりあし」は作者aikoの涙を誘っていたようだ。aikoが泣くなら私達も泣かないわけがない。
 五年後のくだりについて「せつなくて」と語るaikoにはしみじみと同意見だと頷きたくなる。「悲しい言葉」であるとしつつも「前向きなんですけどね」とaiko自身が語っていることからもわかる通り、この段落は悲しさと前向きさが表裏一体になったくだりでもある。
 既に別れてしまっている以上、前のような二人には戻れない。そこには揺るぎない悲しさと切なさが深くうずくまっている。再会を思うことは、自分達の別れ、言ってしまえば崩壊を肯定することでもあるからだ。それを受け止めることは悲しいと言うより辛いが適切だろう。
 だが、それでも「いつか出逢おう」「いつか再会しよう」「その時は背筋を伸ばせる自分でいよう」と思うことは果てしなく前向きである。かつての自分達に別れを告げながらも、新しい未来を夢見る。それが叶うか叶わないかはさておき、それを糧にして生きていこうとするのはポジティブとしか言いようがない。そして無限に存在する愛の形の一つでもあるのだろう。この辺については歌詞を読んでいく際にまた書いていこうと思う。


■小説的奥行き
 aikoの歌詞は基本的には1番だけを書き、後は承諾を得てから2番の制作に取り掛かるものなのだが、ひょっとすると「えりあし」は一気にすべての歌詞を書ききったのかも知れない。そう思わせるaikoの証言がある。

「歌詞はAメロの“ぶったりしてごめんね”っていう言葉から、ぶわ~~って一気に書いたの覚えてますね。で、5年後のくだりで、“あ、なんかできた!”って思いました。ここでキュッとしまった感じがして」

 5年後のくだりを、2番を挟まずに書き至れるだろうか。歌詞全体も他の曲と比べると短めであるし、1番だけでは「なんかできた!」と言う気持ちには乏しいと思う。おそらくaikoは2番も含めて「えりあし」の歌詞を一気に書ききったのではないかと推測する。
 そうなると、他の曲と違って歌詞を一旦寝かせることはせず、言うなれば作品へのaikoの熱が持続されたまま結末まで描けた歌詞となる。その所為か、「えりあし」は「5年後」と言う、様々な想像が働くくだりからもその雰囲気を感じ取れるのだが、短文でありながら、どこか小説的な奥行きと言うか、深みを持った作品に仕上がったように思われる。
「えりあし」で描かれるあたしとあなたのストーリー自体は具体的でも何でもないが、二人の背景や関係性や思い出を聴衆にそれぞれ思い描かせることが、他の曲よりも濃厚に思わせてくるのである。aikoの言う「ここでキュッとしまった感じがして」もまさに物語的なものであって、曲のアレンジや演奏の展開によるところも多いものの、エンドロールを迎え幕が閉じていくような効果を齎している。ライブでの披露や、「まとめⅠ」の最後でもそれは活かされているような気がする。
 小説的奥行きを有している作品。そう言えばMVも図書館が舞台であり、男子学生が本を読んでいき、最後にaikoがその本を開く、と言う映像だった。やはり「えりあし」は聴く人にどこか一つの物語を思わせる作品なのだろう。


■aikoのお気に入り
 終わりの方でaikoはこの「えりあし」をいかに気に入っているかを語る。

「で、レコーディングスタジオでも聴けば聴くほど悲しくなって、どんどん好きになっていって、どんどんひとりで悲しくなってましたね。でもこれを出したことによって、この後にやるライブの超大キモになったんで、すごく作れてよかったなぁって。そしてひとりひとりこの曲が届いてよかったなぁ、って思いましたね」

 この後にやるライブの超大キモ、はおそらくLove Like Pop 8追加公演での演奏であろう(DVD「Love Like Pop add.」参照)ストリングス隊による壮大華麗な演奏が入った「えりあし」は極上の一級品であり、屈指の名演出であった。まさしく鳥肌ものである。
 aikoが「どんどん好きになっていって」と熱く語っている様子を見ると、作者本人がこれだけ気に入っている「えりあし」なんだから、そりゃあ支持も厚くなるだろうし、ライブで歌われれば歓迎されるのも当然だ。これからもaikoの名バラードに「えりあし」は欠かせない、そう強く広めていきたいものである。


■空白が生み出した
 今回えりあしについて取り組んでいく中で、発売当時の雑誌「What's in?」のインタビュー切り抜きを入手することが出来たので、そちらのaikoの話も見ていきたい。出だしからaikobonではわからなかった背景に思いっきりひっくり返るなどした。

「えーと、ホントに、一時期、曲を書いてない時期があったんですよ」

 今となっては常に曲を書いているイメージのaikoであるから、そんな時期があったんですか!? と掴みかかってしまいたくなる。いつもあくせくしている現場と違い、何故か「大丈夫」と余裕で構えている上の人達を見て「ちょっとスタッフをビビらせてやろうと(笑)」としたが、一向にその余裕が解ける様子はなく、結局現場のaiko達が焦ることになってしまった、と言うオチなのだが、そのちょっとした反抗心から出来た空白の時間が、aiko自身「とてもいい充電期間になった」と話すように、ある種の転機となったようだ。

「ちょうど曲を書いてなかった間って言うのが自分の中で、とてもいい充電期間になったというか、そういう期間があったことで歌詞とかも、「すごく書きたい!」とおもってぶわ~ッて書いたんですよ、いろんな歌詞を。その中の一曲が「えりあし」だったんですけど」

 なるほどそんな背景があってのことだったのか、と何度も頷いてしまう。押し込まれていたであろう、aikoの中の書きたい欲が一気に放出したことで名曲「えりあし」は誕生したのだ。書きたい欲の濃度が通常の曲とは大分違うこともあってか、先述した小説的奥行きや深みと言ったものがよりはっきりと表れていることがわかる。
 歌詞についてはこんな風に言及している。

「なんていうか、この曲を聴くといろんな人が頭に浮かんでくるんですよね。大阪の友達とかもそうだし、スタッフの人とか、ホントにみんな。で、そういう大切な人がいなくなるシーンが浮かんじゃうんですよ、ぱあ~っと」
「この曲は、「あなたへの気持ちは、ときが止まってしまったままで、ずーっと思い続けてるけど、決してダメになったわけじゃなくて、その中でも成長したんだよ」っていう前向きな歌なんですけど、これを作ったことで逆に私は5年後も大切な人みんなと一緒にいるのかな、私もこういう心境になったらどうしようとか、そういうことを考えちゃって。で、歌詞にあるように、ホントにしっかりと背筋を伸ばして前を向いていたいなぁって、すごく思ったんですよね」

 インタビュアーはaikoのインタビューではお馴染み、信頼のおけるもりひでゆき氏だが、もり氏もこの言を受けて「この曲は恋愛をモチーフにはしてるけど、aikoさんの中では、もっと広い意味での人間関係にまで思いが広がっていったんですね」と話している。
 aikoともり氏のやり取りを読んで、「えりあし」は、勿論恋愛の曲と聴いてもいいが、それだけでない、友人、家族、師弟、同僚、共通の趣味の知人……等々、あらゆる関係を投影出来、想いを重ねることの出来る普遍的な一曲だと、改めて感じた次第である。「えりあし」が広く支持されている理由がここにもあることは、もはや疑いようもないだろう。



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