■そんな理由でぶつな
 それでは歌詞を読んでいこうと思う。aikoが「ぶったりしてごめんね」からぶわーっと書いていったと言っていた通り、後悔と言う自省から始まる歌だ。二人の間には色々な衝突があったことだろう。終わってしまった今、全てが遠い過去の話となっては、それらを思い返すたびにただ一言、「ごめんね」の言葉しか私達には出てこない。その「ごめんね」の形や色も様々だ。シンプルな一言に、リスナーはそれぞれの過去を投影していく。

 さて。さて章題である「そんな理由でぶつな」であるが、私は「えりあし」の歌い出しの歌詞を見ると決まって「何が「愛しくて仕方なかった」だー! そんな理由でぶつなー!」とTwitterで吠えるのだが(筆者のツイログを「そんな理由でぶつな」で検索すると少なくとも2012年からずっとこのことでツイートしているらしい)いや本当に「そんな理由でぶつな!」の感情に完全に支配されての言動なのである。「えりあし」のリリースは平成15年であるが、今や時代は令和2年である。とっくにそんな理由では許されない時代になっているのである。SNSに放てばたちまち炎上まっしぐらな案件だ。

 ……と、別にこんなつまらないことに目くじらを立てて、本気でどうこう言いたいのではない。暴力沙汰でああだこうだ、なんて思っているわけがなく、このフレーズはあくまで愛情表現の一種と言うか、総じて「あなたにかまってもらいたいがゆえ」の動きであることくらいお察しである。続く「ねぇ 泣き真似してごめんね 困った顔が見たくて」も同様である。ぶったのも、泣き真似をしたのも、全部あなたにあたしの方を向いてもらいたいからだ。
 ならば思うのだが、あたし自身の方は、果たして本当にあなたのことを見ていたのだろうか。もっと言うと、あなたのことを想っていたのだろうか。答えはおそらく否である。1番Aメロのくだりは全て自分本位の動きであって、自分がしてもらいたいこと、自分が求めていること、自分がどうしたいか、何をしたいかばかりに夢中になって、相手への思いやりが圧倒的に欠けているのである。自分本位なところのない恋愛も問題があるけれど、そればかりでも当然問題ありなのだ。こういった状況は恋愛なら特に、その大小はともかくとして、誰しもに経験があるのではないか。そう思ってしまう。……とは言え張本人でないと、渦中にいないとその気持ちはなかなか慮れない。そうでなければ客観的に判断するものだ。
 だから、あたしに対してリスナー側は少し不愉快を抱きかねない。何を子供のように自分勝手なことばかり相手に要求しているのだと。私が「そんな理由でぶつなー!」と吠えるのだって、何も100パーセントギャグで言っているわけではないのだ。そんな理由でぶってしまえるほど、この時点のあたしは非常に「幼稚」ということだ。


■あの頃の自分
 自分で気付けない自分本位を続けた果てに、終わりはやってくる。「そして あなたの背中が遠ざかり 最後に気付く儚き愚か者」と綴られるBメロで、初めてあたしはあたしの幼稚で醜い姿に気付く。自分の気持ちにばかり正直になり、相手を顧みずに追い求めた結果、訪れたのは一人残された終わりであった。終わってしまったその最後に、ようやくあたしは別れに気付けたのだ。
 だけど全ては終わりつくしてしまって、何も残されていない。そこに至るまでに気付けなかったあたしに、作者であり歌い手であるaikoは残酷にこう告げる。「儚き愚か者」と。
 想い人に離れられ、茫然自失とする、まさしく儚き存在。かつ、それを引き起こしてしまった張本人であると言う、愚者と言う呪いの称号。その烙印をあたしに押したのは、歌詞上ではaikoではない。その儚き愚か者である、あたし本人である。いわば、「えりあし」の1番AメロとBメロは回想シーンであって、「時が経」ったところから、あたしはかつての愚かな自分を振り返り、その愚かな所業を見つめ直しているのだ。


■恋の成熟
 ぽつんと残された愚か者のあたし。だが時は止まることなどない。あなたのいない世界を受け入れて、あたしはあたしの人生と言う旅路を歩いていかねばならなかった。
「時は経ち目をつむっても歩ける程よ」と歌われるサビであるが、あんなに自分勝手にあなたを追い求めたあたしが、あなたなしの世界で「目をつむっても歩ける程」に成長を遂げていることには、いっそ感動すら覚えてしまう。Bメロからサビへはほんの数秒ではあるが、その数秒で一体どれだけの時が流れたのか、その間にあたしはどんな風に成長していったのか。年月を想うと共にどこか切なくなるくだりだ。
 あたしはあなたがいなくても、歩いていけるようになった。それは、「今、ここにあなたがいなくても平気だ」、すなわち、「あなたがいなくてもいい」と言うことだ。優しくも残酷な、喪失の肯定だった。これは恋人や好きな人、友人だけではなく、家族にも当てはまりそうな話だ。
 それだけの時が流れれば、あたしがこんな風に大人びていることからもわかるように、人も景色も社会も、色々なものが変わってしまう。この世界で変わらないものなどない。だからこそ、変わらずに揺るぎなく持ち続けられるものが真に尊く、人々の胸を打つのだ。
 そこで響いてくるのが次の歌詞だ。「季節に逆らい想い続けて 今もあなたを好きなままよ」──あなたがいなくても歩いていける。あなたが今あたしを愛してくれなくても、かまってくれなくても問題ない。会えなくたっていい。だけど、それなのにあたしは変わらずに、あなたを想い続けている。好きであり続けている。長い時が経って、変化が起こってもおかしくないのにだ。
 単に振り向いてもらいたくてぶっていたり泣き真似していた頃とは本当に雲泥の差である。見返りを求めないことは愛の基本であると思うのだが、あんなに我が儘だった、間違いばかりの独りよがりの恋は、そう、いつのまにか「愛」と称しても申し分ないほどの想いに成熟していたのである。


■恋をし続けたっていい
 別れても、今生の別れではない。この世で元気に生きていてくれるのなら、またいつでも会える。そうaikoは語っていた。あたしも時を重ねていく中でaikoと同じ考えに至ったのだろうか。むしろあなたを想い続けているからこそ、そう信じられるようになっていったのかも知れない。
 あなたがいなくても生きていけるのは事実だ。いっそ再会が、人生の最期を迎えてなおやってこなかったとしても、彼女はあなたを想い続けているのかも知れない。──そう思わせるくらい、この恋は、愛は壮大だ。
 そして聴く者にとっては、最初の方に述べたように一種の救済でもある。別れても、どんなに辛く苦しい恋だったとしても、相手にどれだけ嫌われてしまったとしても、自分の想いを押し込めなくてもいい。無視し続けなくてもいい。変わらずに想い続けてもいいのだ。それをaikoが許しているのだ。
 人の想いを、誰が止めることが出来よう。「えりあし」のこの歌詞は至ってシンプルであり、内容だけ見れば一見陳腐ですらあるものだが、その実、あらゆる傷心の者達への救済であり、全ての恋愛を肯定するとてつもない歌詞なのではないか。そう私には読み取れるのである。



back         next

歌詞研究トップへモドル