■傷ついて、だけど、傷つけて
 最初に聴いた時からずっと二番Aメロに惹かれるものがあった。今回改めて歌詞に向き合って読んでみると、漫然と聴いていたそれまでには気付けなかったこと──と言うか普通にきちんと聴いたり読んだりしていたら気付いて然るべきことにようやく気付かされた。ので読解力がなさすぎるだろ、と思われても仕方ないことで大変お恥ずかしくはあるが、しばしお付き合いいただきたい。
 二番であたしは「愛する事も抱きしめる事も本当不器用で」と、己のことを不器用だと表現している。そして続くフレーズは「ずっと傷ついて 失って ここまでやってきたのね」とあるが、あたしは果たして傷ついただけの被害者なのだろうか。
 先述したこととは違い何かを得られた、何かに気付いた、ある境地に到達出来た、と言うことではない。傷ついたのだったら、その反対にあたしが「相手を傷つけていた」ことも同様にあって然るべきではないのだろうか。人と人の関係なんて、恋愛なんかは特に傷つき傷つけ合うものだ、と私は思っている。人に恋することも、愛することも、好きになることも全部、ある意味では(暴力的な言い方ではあるが)人を傷つけることと隣り合っているものではないだろうか。
 そう考えると、私が感銘を受けたサビのフレーズもこれまでとは違って聴こえてくる。「あなたにはあたししかいないなんて/そんな事は到底言えないけれど/今のあたしにはあなたしかいらない」であるが、傷ついただけで果たして「今のあたしにはあなたしかいらない」と言えるような境地に立てるのだろうか。それは難しいように思う。もっと言うなら、あなたに出会うまでのあたしが相手に投げかけていた言葉こそが前置きとしてある「あなたにはあたししかいない」だったのかも知れない。それは相手の意志を無視した決め付けであり、一方的な暴力だ。
 あたしは相手を大事にしていた、愛していたと思っていた。でもそれは相手からしてみれば、そうではなかったのかも知れない。あるいは、あたしも大事にされていると、愛されていると思っていたけど、相手からしてみればそうではなかった。そう考えると「二人の形」のサビに至る背景は実に苦々しく思われる。「両手にあまる程たくさんの恋をしたってそれは/決して誇れる事じゃなくて悲しんでゆく事なのね」にしたって、先述したように豊富な恋愛経験があたしの誇りであり自負であったのかも知れないけれど、相手によかれと思っていたがその実傷つけていた、と気付いたあたしからしてみれば、両手に載せられているものは無限の悲しみと虚しさ以外の何物でもなかっただろう。
 恋愛の数だけ人を傷つけてきたも同様だ。じゃあ、だったらそれは、悲しいことだ。そう思ったのかもしれない。ゆえに彼女は自分を不器用だったと評し、心をどん底まで沈めてしまっていたのだろう。

■この木の下の終着点
 ここからは多分に私の妄想じみた解釈になってしまうのだが、そういう状態だとすると自分から恋愛をしようという気には、なかなかならないのではないだろうか。それどころか、もう恋愛など拒否してしまっているような状況になってしまうのも、ままあるかも知れない。けれど「ハンカチ1つ乾かないそんな心」になってしまったあたしは「見つかる物も見つかんない」ような、生きることさえ危ういところまで堕ちていってしまう。
 そんな状況の中であたしはあなたに出逢うのである。恋愛を拒否していたのに、温かさと言うあなたを求めてしまった。そばにいたいと、そう願った。性急さや強い想いに焦がれてではない、激しくドラマチックなものではないけれど、じんわりと心の内から染み入るような穏やかな恋の芽生えだったろう。
 あんなに沢山傷付いて、傷付けて、悲しんで、切なくて、虚しくて。それでもまた人を、誰かを、求めてしまう。なんて浅ましいことか。なんと愚かしいことか。でもそれはどうして? どうして求めてしまうのだろう。
 その理由はたった一つだ。なんてことはない、「今のあたしにはあなたしかいらない」からだ。「あなたのそばにいたい」からだ。そしてそれこそがあらゆることにおいて何よりも大事なことであり、全ての原動力であるのだ。
 あなたがそれまでの相手とどう違っているか、あなた側の描写が少ないのでそれはわからない。でもあなたがそれまでの相手と違うタイプの人物だった、と言うよりは(勿論その比重も大きいと思うけれど)あたし側が変わったのだ。「二人の形」を私はそう読みたい。色々な恋愛をしてきて、結果としてあたしの心はぼろぼろになってしまったかも知れない。生きることさえままならなかったかも知れない。けれど、あなたに出逢えた。あなたの暖かさに惹かれた。そしてあたしはやっと、これまでの恋愛では気付けなかった、心から生まれる確かな気持ちに気付くことが出来た。その気持ちを信じて、あなたのことも信じて、今度こそ確かな未来へ共に歩んでいける。そこへ至る為に傷も悲しみも虚しさも、全部全部必要だったのだ。それは言ってみれば能動的な“悟り”である。
「ずっと」の「あなたに出逢えた事があたしの終わり」ではないが、いろいろあったけれど、ここがあたしにとっての目的地、終点であるような気がしてならない。今度こそ見失わないように、指の間を握り続けて、あたしがあなたを引っ張っていくような形で笑顔で二人が共に歩んでいくことを願うばかりだ。

■終わりに
 以上、いろいろと書いてきたがこの曲の肝はやはり、aikoも言ったように「自分がどうしたいか」にあると思う。あなた側の描写があまりされていないので(大抵の曲がそうかも知れないが)憶測だが、あたしが至ったこの考えにあなた側も納得してくれていると思う。あなたの方も「手を引くあたしに笑ってついてきてくれる」と言う二人の形を歓迎してくれているのではないか、と考えるのはさすがに甘え過ぎだろうか、そんなことはないと思いたい。
 あなたにはあたししかいない。その言葉が間違いだとは言わない。時にそんな強引な言葉が必要になるかも知れない。けれど本当に大事なのは「自分はどうしたいのか」と言うことである。恋愛でも夢でも家庭や友情に代表される人間関係でも、何でもいい。人生のあらゆる局面で、自分の胸にあるその真っすぐな強い気持ちは、自分の心の声はきっと自分を正しい方向へ導いてくれる。その想いはどんなものであれ、尊いと私は考えている。
 多くの恋愛に身と心を惑わせていた「二人の形」のあたしは、初めて本当の意味で自分の声を聴けたのかも知れない。あったかい夏の始まりそうな木の下、零れる木漏れ日がきっと美しい天啓のようにその声をあたしに届けてくれたのだろう。そしてそれは祝福の鐘の音のように、あなたとあたしの二人の形に永遠に寄り添っていくのだろう。

(了)



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