約束された来世 ― aiko「花風」考察



■はじめに
「花風」は二〇〇四年九月一日に発売されたaiko十六枚目のシングルである。私が高校二年生の秋のことである。この曲を誕生日記念稿で取り上げようと思ったのはLLP16.5で久々に聴いたからと、自分の日記の記述を見てちょっとホロリときたからである。
 ここで書くことでもないがまあ所詮個人サイトの読み物のマクラと言うことで少し記述する。「花風」が初めてラジオでオンエアされた時の記述なのだが(ちなみにaikoデビュー六周年前日に放送されたヌルコムのSPにおいて)「大学行ったらaikoの歌詞を研究したい」と言う何気ないサラッとしたもので、もう十年近くも前から当たり前にaikoがアホのように好きなのに変に感動してしまった、からである。
 そんなわけで、大学を出て早ウン年であるが、ここで十七歳の私、花風を初めて聴いた時の私からのリクエストに答えようと思い、考察を始めることにした。


■生まれ変わってもあなたを見つける
「花風」と言えば「生まれ変わってもあなたを見つける 雨が止んで晴れる様に」のフレーズが実に印象的である。実際のところ曲中ではたったの二度しか歌われないのに、大サビ前のブリッジで歌われるからであろうか。いや、この言葉の持つ力が強大だからだろう。
 当時のメル友さんは私にこう教えてくれた。「「雨が止んで晴れる」のは当然のことだ。それと同じように、「生まれ変わってもあなたを見つける」ことは「あたし」にとっては当然のこと、自明のことなのだ」と。この解釈に若輩の私は非常に胸打たれたのであるが、彼はいまどこで何をしているのだろうか。ともかく、以後私の花風観はこのフレーズに支えられてきたのである。

■文学的より、「芸術的」
 aikobonを参照する前に、自分がこの曲について思うことを書いてみよう、そこから考えてみよう……とペンを取ったのであるが……あまり出てこない。
 だいたいにおいて私の歌詞考察は何らかの疑問点を挙げてそこを解明する形で進んでいくのが一つのセオリーなのだが、この曲、言ったら悪いがそういうところがナイのである。つっこみどころに欠けるのである。変に手を加えると蛇足も甚だしいのである。
 花風という曲がある。それでいいのである。アップテンポで盛り上がるし、好きな人多くて人気だし。それでいいじゃん。はい終了〜。……とはいかないので、真面目にやる。
 しかしながら、俯瞰してみてこれといって問題点がないということは、かえって面白味に欠けることと同意だ。花風は優等生プレイヤーであるが、私からするとうまいこと解説の書けない厄介者に近い。……あ、花風好きな人ごめんなさい。大丈夫私も好きです。何が大丈夫だ。
 この曲は言ったら悪いが、まずストーリー性があんまりない。「あたし」「あなた」と役者は揃っているが、歌われている状況がどのようなものなのか定義しにくく、展開がないのだ。
 と書くとなにやらかなり悪し様に言っているようなので言い換えよう。ストーリーがないかわりに一つの感情や想いに一点集中して歌われているのである。
 これを私は「俳句的」と言いたい。以前にKissHug覚書でも似たようなことを書いたのだが、十七文字と言う一瞬で情景を射止め、感慨を抱かせるそれに、花風はとても近いと思う。つまり「時間芸術」ではなく、絵画のような「空間芸術」に近い曲であり、歌詞なのだ。aikoの曲にはしばしばこのような空間芸術系歌詞、俳句的な歌詞が多くあると思う。
 そもそも全ての歌詞に物語やらストーリーやら設定やらを求める方がナンセンスであろう。歌の祖先は三十一文字の和歌にあると思うのだが、和歌だって全てにストーリーがあるわけではない。そも、いつのまにか出来上がってしまっているストーリー至上主義がいけない。いくらページを割こうがレトリックを捻ろうが、またとない傑作を上梓しようが、小説では歌一首、俳句一句に決定的に敵わないところがある。見たもの読んだものに、一瞬の内に情景とあはれを浮かべさせること。それこそ世界に誇る日本文学の神髄であるとさえ私は思うのだが、それは歌詞にも言えることなのだ。いわんやaikoの歌詞をや。……ちなみに私は俳句も短歌も大の苦手である。自分から自分の文学的発展の可能性のなさを披露するようで何ともアレであるが。(ちなみに、能因本枕草子以外の「花風」の用例に江戸時代の俳諧、つまり俳句が挙げられているのが偶然とは言え面白い)
 幾分aikoおよび「花風」から脱線しているので戻すが、全ての歌詞に明確な物語があると思いこんではいけない。ぶっちゃけると「花風」はもう「生まれ変わってもあなたを見つける」のフレーズを歌いたいが為に書かれたんじゃないか、とすら思うのだ。
 言うなれば歌詞全体が壮大な序詞なのである。よくあるだろう。「この言葉を言いたいが為にこの役をやりたい!」とか「この台詞を言いたいが為にこの噺を高座に掛けたい!」とか「このシーンを書きたいが為に小説を書きたい!」とか。aikoももしかするとこのフレーズに一点集中したのではなかろうか。
 そうなると、連続した絵ではなく、この曲はやはり一枚の絵画に代表される空間芸術タイプの歌詞なのだ。それは「文学的」ではなく、「芸術的」と称すべきかと思われる。文学か芸術か、どちらが良くてどちらが悪いと言う話ではない。どっちも良いのである。どちらに分類するか、なのだ。ストーリーや行間の情緒に重きを感じたなら文学的だろうし、そうでなく一瞬の情景の鮮やかさや美しさに胸を打たれたならば芸術的、なのだろう。


■「花風」aikobonを参照する
 先にaikoもこれが歌いたかっただけなんじゃないかと書いたのだが、当たらずしも遠からずと言うか、aikobonライナーノーツではその「一点集中」に通じる風に彼女は書いているのである。

「生まれ変わってもあなたを見つける」というフレーズが好きです。それを簡単にできる! って思わせてくれるような人だよ、あなたは! っていう気持ちを伝えたかったので、書きました」(花風のライナーノーツより)

 またその前には、「今の自分が今思ったことを歌った歌」であるとも書いている。
 発売当時のオリコンスタイルでも、こう書かれている。

「相手に対する悲しみもムカつく! って気持ちも、絶対すごい好きがないと生まれてこない。たいしたことない人やったら嫌なことされてもほっとけばいいかって思うけど、好きな人がするとすごく悲しくなったりする。それだけ好きは大きいんやから、その気持ちを信じよう。生まれ変わってもあなたを見つけるのがたやすいくらいあなたのことが好きなのよっていう曲なんですよ」

「花風」が収録されているアルバム「夢の中のまっすぐな道」(以下「夢道」)の方にも、「花風」のライナーノーツがあるので引用する。

(花風が出た)「当時から私はとても前を向きたかったんだなって、このアルバム(夢道)を作ったのはこういう気持ちがつねに根付いていたからなんやろうなって思いますね。それくらいやっぱ前を向きたい感がすごくこの曲にも出ていますね」

 aikoが二つのライナーノーツで強調していることは「今」であり、「前を向いていること」と言うことを覚えておきたい。オリスタの方でも、今の恋も含めて終わった恋にもこう言及し、「好き」である気持ちの「強さ」を語る。
「今ある恋だけじゃなく、終わった恋でも全部、「この人のことが好きだった」っていう気持ちがあるだけで自信につながるんですよね。好きっていう気持ちが生まれていたことで、すごく凛とすることが出来る」(全力で好きだったからこそ)「そういう恋をした人とは終わった後もどこかで繋がっていられる」とも語っている。

 ちなみにタイトルの「花風」とは、先にもちょっと書いたように能因本枕草子の「風は」に出典が見られる文語である。能因本は江戸時代までは主流で読まれていた枕草子だが、現在では主流ではないので、一般に流通している枕草子には登場しないと考えてよいだろう。(なお小学館の全集は能因本を底本にしている模様)
「風招き」の「風招」に続いてそんなレアな文語をどうしてaikoが知っているのかと言うと、オリコンスタイルによると「辞書を見てて発見した言葉なんですよ」と語っている。(もしかすると「風招」もそうやって発見された言葉かもしれない。二つのタイトルに共通する字は「風」なので、連動して発見されたものかもしれない)

「花が咲き乱れている時に吹く風っていう意味だけど、そういう風って好きな人がいる時に心の中にも吹く気がして。突風みたいに吹き荒れる時もあれば、静かに吹いている時もあるだろうけど」と語る。花は季節によって違うとも言っている。尤も広く読まれている辞書である広辞苑では「桜の花の盛りに吹く風」とあるので、aikoの言う花風とは多少意味が食い違っているが、もはやaikoによる造語、新語と言ってもいいかもいれない。しかし「風招」と同じようにドマイナーな古語を曲タイトルに用い新たな息吹を吹き込むaikoは、賞賛を込めて、埋もれた古語の発掘者と呼ぶべきだろう。

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