■空間の距離、時空の距離――「キラキラ」との対比
 歌詞を精密に読んでいくと、ぴんと思いつくことがある。
 この「花風」には「距離」を感じさせるものが多い。まず時間的なものはaikoがaikobonで「(aikoが)小学校四年生まで住んでたマンションなんです。時は経ち〜♪ って歌ってるけど、経ちすぎ!(笑)」と言っているように「マンションの二階の廊下でバイバイ」と言う子供時代から「時は経ち」と歌われる箇所。推測だがおよそ十年程の時空距離を感じさせる。
 そして空間的なものは抽象的なものなのだが、二番Aメロの「見えなくても 声が聴けなくても」が挙げられる。次に、フレーズ自体は仮定の表現に近いが、サビでは「あなたもこの空の下 同じ陽射しを眩しいと目を細め」と、「あたし」と「あなた」の距離が離れていることを感じさせる描写がされている。
 となると、「あたし」の近くに「あなた」はいない。少なくとも「あなたと握手」のように「どうして何でといつでもどこでも」聞きにいける距離にはいないことが推測出来る。つまり「花風」は、俗っぽく世間的な恋愛のタームで言い換えると、いわば遠距離恋愛の曲と言えるだろう。
 面白いのは、「花風」から約一年後に発表される「キラキラ」もまた相手と「あたし」が離れた曲であり、なおかつ、「キラキラ」が相手を「待つ」曲であるのに対し、「花風」は「待つ」要素がほとんど感じられないところである。
 イヤ、精読するとこの二曲、似ているのにまるで表裏とばかりに正反対である。「キラキラ」はBメロやサビがどことなく悲壮的であり、歌詞も「風になってでもあなたを待ってる」と、いわば死して後も「あなた」を「待つ」ことを暗示している。対して「花風」はどうかと言うと、先ほど「待つ」要素が感じられないと書いたが、「花風」は「必ず出会う」要素に満ちていると感じる。「キラキラ」を象徴する受動的な「待つ」に比べてきわめて能動的なのだ。「あなた」への繋がり、それを信じる「あたし」が「キラキラ」よりも強固である。
 最初に挙げた印象深いフレーズである「生まれ変わっても あなたを見つける」がその最たるものと言えよう。「キラキラ」が死して後も現世に留まり「あなた」を「待つ」のに対し、「花風」は現世以上に頼りないものであるはずの来世での邂逅を、推測でも願いでもなく、見事に言い切ってしまっているのだ。aikoの言うようにそれは「あなた」がそうさせるだけの強い存在であり、「好き」と言う気持ちや想いが強いと言うのも理由だろうが、そう言えてしまう「あたし」の方にも余程の強さがあると感じる。
 と言っても「キラキラ」が「花風」に劣ると言うことはない。切ない恋愛の曲と言う観点からすれば「キラキラ」は「花風」よりも切なく、多くの人の心に響くものがあるだろうし、個人的には、江戸時代前期読本の代表作、上田秋成「雨月物語」の「浅茅ヶ宿」もかくやと思わせる程の文学的価値があると思っている。私も、どちらかを選べと言われたら多分「キラキラ」を取るだろう。


■それまでは、ちょっとだけお別れだね
 考察すべく歌詞を俯瞰し曲を何度も聴いていると、この「花風」、aikoには珍しくネガティブな要素が少ないことにも驚かされる。一応、「あたし」は「臆病」であることが明示されているが、それも「あなたがこの空の下くれた七色の 世界を守り通すよ 臆病なあたしの胸で」と言う決意の文脈の中で、である。(書いてて何となく、「魔法少女まどか☆マギカ」の暁美ほむらの曲のような気がしてきた。え? 叛逆? なにそれおいしいの?)
 第一、「花風」は最初に挙げたように言葉の意味だけ見れば桜の盛りに吹く風、つまりは桜を散らす風のことである。日本国語大辞典では「桜花を散らすように吹く風」とある。桜が散る、とは一見美しい光景だが、栄えたものの衰えや終わりを暗示させるものとして古くから使われてきたモチーフである。が、「花風」はちっともそんなことはない。もともと単語自体が珍しいということもあるが、aikoの方でポジティブな意味に転換されてしまったのだ。美しい光景の方だけを聴く者に感じさせるのは、ひとえにこの曲が不穏な影も予感もほとんど感じさせない曲だからであろう。
 しかしながら、色が強すぎるとかえって別の色が目立ったり、逆に意識してしまう、ということもままあることだ。「花風」もまた、強いポジティブを裏打ちする何かを隠し含んでいるとは考えられないだろうか。
 と、考察を進めて私はその段階に至ってしまったのだ。多分ここまで深入りしなければ気付かなくても何ら影響はなく、気付かないままいたほうが幸せだったかもしれない、というところに。
 ……と書くと何やらホラーであるが、オブラートに包まず、堅い文体を崩して書くと、ここから書くことは実に陳腐なので、ぶっちゃけるとこんな解釈つまらんしありきたりだし、ここに至りたくはなかった! 出来るだけ回避したかった! のである。
 つまらん、というのは、それは「あなた」が故人である、という読みである。
 ね? つまんないでしょ〜? ありきたりでしょ〜??? 死ネタかよ! って花風ブーメランしたくなるよね。しませんよ。私はオチに死ネタを持ってこられると極端に萎えやすく冷めやすいのだ。安易な終わり方過ぎるからね。
 では文体を戻して本論に戻るとしよう。大体、「あなたもこの空の下 同じ陽射しを」と言うフレーズから考えるに、「あなた」と「あたし」は距離こそ離れているが、同じ世界で同じ時間軸にいることが読み取れる。冒頭のフレーズからしてそうなのだから、「あなた」が故人であるなどという三流も甚だしい読みは即刻破棄すべきであることが容易にわかっていただけると思う。
 しかし、だ。aikobonでaiko自身が「今」を押し出しているのだし、私自身それでいいじゃないかという気持ちがある、余計な勘ぐりは無用であるし無粋であるのだが、今一つ読みを加えてみたい。
 どうしてかというと、やはりこの「花風」は、「あたし」が一途に想う「あなた」の気配が、どうしても遠すぎる、存在感に乏しいように感じるからだ。まるで、地上にいる人間と、天上におはします神のように。
「あなた」故人説は破棄するにしても、故人でいることには変わりないのだが、「あなた」の魂が既に何かに生まれ変わっている風に考えることも可能ではないだろうか。そう考えれば「あなたもこの空の下」のフレーズにも矛盾は生まれない。
「あなた」の方は既に来世を生きている。その存在は必ずどこかにいて、「あたし」もまた生まれ変わって、必ずその魂と巡り会おうとする。aikoが言ったように、「終わった後もどこかで繋がっていられる」のだから。それが他人の目からすれば悲しい別れであっても、あくまでも、今は一時的な別れに過ぎないのだ。
 再び巡り会える時が来るまで、「あたし」は「あなた」がくれた「七色の世界」を守ろうとするし、「奇跡のような恋」を誰にも汚されまいと純潔を貫こうとするのである。


■約束された来世
 結局繰り返しになるのだが、この「花風」の最大の魅力はやはり「生まれ変わってもあなたを見つける」というフレーズである。断定、言い切ってしまうところにあり、それを言わしめる程の強い想いを全編に渡って歌っていることは、もしかするとaiko曲の中でも非常に希有な部類に入るのかもしれない。少なくとも聴いた人十人中九人はポジティブだと想うだろう。ひょっとすると前項で述べたように、強すぎるが故に「あなた」の存在が既に消失していると感じさせてしまうことが、「花風」唯一のネガ要素なのかもしれない。マア私が単に勘ぐり好きなだけなのかもしれないが。
 たとえ相手が一時的にそこにいないにしろ、それとも既に永久の別れを交わしてしまったにしろ、「あたし」は来世を信じているし、そこでもう一度出逢うこと――否、出逢うよりも能動的である「見つける」ことを、「雨が止んで晴れる様に」自明のことであると歌う。「光が射しててそれは綺麗で あなただけを照らしてるから」「あたし」はそこへ――言うなれば「約束された来世」へ行けるのである。


■おわりに
 この「花風」が既に十年近くも前に発表されていることにやはり驚きを隠し切れない。aikoはこの後にも多くの曲を発表する。今年は十五周年だったが、花風のリリースはデビュー六周年を迎えた頃で、作られた時期は推定だが「暁のラブレター」の制作中には既に出来ていたということで、五周年を迎えた頃である。十五年に及ぶaikoの歴史から見れば、まだ初期か、中期の序盤にあたる曲だろう。「花風」を打ち砕くような曲だって、今後出てくるのである。
 だがそれは「花風」の否定でもなく、まして当時のaikoの否定でもない。aikoはポジティブとネガティブの垣根、プラスとマイナスの境界をやすやすと超えて、恋愛を主なテーマとして芸術作品を描いているのだ。すべてが正解であり、間違っていないのだ。
 aikoは今後もあらゆる垣根を超えて、恋の一枚絵を描き、恋の物語を語り続けていくのであろう。もうあと二年で不惑の四十を迎える彼女の見ている世界は、どんなものが映っているのか。きっと「光が射しててそれは綺麗で」あるはずに違いない。私も今後の考察を通して、不器用にでも、彼女の世界を追いかけていきたい所存である。

(了)

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