いつかひまわりのあたし達
-aiko「ひまわりになったら」についての考察・読解・解釈と巨大な感情-



■はじめに
「ひまわりになったら」はaikoのインディーズ時代、1998年4月21日に発売されたシングル「ハチミツ」のカップリングとして発表された。このハチミツカップリング版が初出であり、それから10年後、2008年3月12日に発売された23枚目のシングル「二人」のカップリングとしてセルフカバーバージョンが収録、発表された。
 インディーズ時代からある曲としては非常に人気のある曲で、aikoのライブにひまわりの造花を持っていくというお約束(今もやってる人いるんかわからんが)もこの曲から生まれたものと推測される。ちょこっと調べてみると、デビュー前のaikoがFM大阪TOP40のパーソナリティーをしていた頃、持ち曲としてよくこの「ひまわりになったら」を流していたのも人気の所以として大きいのかも知れない。
 もっと言うと、aikoがインディーズで活動するきっかけとなったMUSIC QUEST JAPAN FINALで優秀賞を取った際に歌唱したのがこの「ひまわりになったら」だったりする。なので、本当の意味での初出はこちらの方となる。(ちなみにその前年、95年のTEEN'S MUSIC FESTIVALで歌われたのがaikoの最古曲である「アイツを振り向かせる方法」である)YouTubeで「ひまわりになったら」を検索するとその当時の(今となっては極秘)映像がアップされているので、若かりし頃のaikoを知りたい方は是非チェックしてもらいたい。
 優秀賞を受賞したことから、まだまだ粗削りで、歌手として羽ばたきすらしていない、殻を破ったばかりの雛鳥だったaikoが作り上げた最初期の作品だったこの曲が、多くの人を唸らせる至高の作品として既に完成されていたことがわかるだろう。それならば、aikoをまだ単なる、身近なラジオのパーソナリティとして親しんでいたリスナー達にとっても評判の高い、心を掴む曲になったのも頷ける。キャッチーなメロディ、明るくも切ない歌詞を歌う名もなき存在の彼女の歌声は、どれだけ沢山の人の心に響いたのだろう。今のaikoの地位と二十年以上の歳月を思えばあまりにもエモの極地で、語彙力を投げ捨てた表現をついしてしまうくらい打ち震えてしまう。
 そんな伝説の名曲が、長年の沈黙を破ってついにメジャー版として発表。まさに真打登場と言う趣に界隈は熱狂した──かどうかは知らないが、少なくとも私は発狂するレベルで飛び上がって喜んでいたはずだ。記憶間違いではないと思いたい。


■「ひまわりになったら」と私
 少しばかり私の「ひまわりになったら」愛について記しておきたい。
 私が初めてこの曲を聴いたのは高校に入って最初の夏休み、それも始まったばかりの頃だった。ちょうどその頃はaikoのファンクラブ・BABY PEENATSでのインディーズ版CDの通販が終了になった時期でもあり、高校生の僅かなお小遣いを使って今となっては激レア中の激レア盤となってしまった「astral box」と「ハチミツ」を購入したのである。ちなみに「GIRLIE」はこの前年くらいに買っていて、この二枚はまさに駆け込みで購入したものだ。
 それが届いたのが夏休みに入ったばかりの七月下旬、だっただろうか。「astral box」の収録曲にも色々衝撃を受けたらしいのだが、それを上回る衝撃が「ひまわりになったら」だった。なにせ、聴き終わって──どころか聴いてる最中にボロ泣きしていた。これはマジだ。曲を聴いて即泣いたという経験はおそらくこの「ひまわりになったら」が初めてだろう。情緒不安定甚だし過ぎる。聴いていたのが家でよかった。
 ここで背景を記しておくと、この当時、私は先輩相手に叶わない片想いをしていた頃で、どうあってもその恋愛はハッピーエンドにはいかないであろうことが夏の時点で容易に予想出来ていた。実際その通りになって、いやむしろ相当タチの悪いバッドエンドを迎えてしまって、その相手とは今に至るまできちんと再会を果たしていなかったりする。だから、この曲で歌われるあたしとあの子の恋愛が自分の恋愛にダブってしまって、明るくも切ない終わり方に、私は未来の自分が別れに際し流すであろう涙を前借りでもするようにわんわん泣き叫んだのである。
 が! が、これはそれほど重要ではない情報であって、多少そういうところはあったにしろ、自分をダブらせて泣いたのが100パーセントかと言うと実際そうとも言い切れなかったりする。私はどこか、この曲に描かれた「あたし」と「あの子」の物語があまりに切なすぎるから泣いた、と言うことが、おそらく20、いや40パーセントくらいは含まれていた……と思うのだ。
 勿論これは今の、「とにかく「ひまわりになったら」が好き過ぎるオタク」になってしまった自分による裁量ではあるのだが、自分のことばかりではなかったはずだ。自分のことを一旦置いてしまうくらい、この「ひまわりになったら」で描かれるストーリーは切なくも健気で明るくて……それが故にまた切なく、悲しいのだ。リスナーである私はただ聴くだけしか出来ない。この二人の物語に対して何も出来ないのも、また悲しい。そういった気持ちが響き合って、感性がやたらと過敏であった思春期の私は涙してしまったのだ。
 ……と書くとやっぱりなんだか出来過ぎた話になってきた気がするが、先に進もう。私の先輩への片想いが痛々しく散ってはや幾星霜。自分の恋愛と紐づけた「ひまわりになったら」の思い出もとっくのとうに色褪せてしまった三十代の今──いつのまにやら私はこの「ひまわりになったら」に本気オタク、みたいなことになってしまっていて、いっそ信仰や崇拝と言えるくらいの謎の熱意を懲り固めてしまっていた。
 私が最初に聴いた「花火」や一番大切な曲である「スター」、その他様々な名曲や思い入れのある曲を差し置いて、何はなくともただひたすらに闇雲に人に真っ先に勧めてしまいたくなるのがこの「ひまわりになったら」である。私のTwitterのツイログで「ひまわりになったら」で検索すると数々のおぞましい「ひまわりになったら」に関しての迷言、珍発言、様々な幻覚、お気持ち、暴論、怪文書等々がむちゃくちゃにヒットするので、よっしゃいっちょ見たろうやないかいと言う稀有な方がもしいらっしゃれば検索してみてほしい。
 ……それと、これはこの段落で早々のうちに書いておくべき非常にどうでもいい脱線なのだが、何故か私は「ひまわりになったらは百合で読んでほしいんじゃあ!」と言うことをしきりに言っている。いつかは忘れたが、ネットのどこかで「aikoのひまわりになったらは百合」と言う言説を見てしまったのがきっかけだ。私はこのどこの誰が放ったかわからない言説に少なくとも十年以上は狂われっぱなしなのだ。──百合、とは大雑把に言うと女の子同士の恋愛のことで、私自身は(これは嘘偽りなくマジで言っているのだが)百合文化や歴史、そもそも百合と言う概念については実は全く詳しくない(マジです)
 けれども確かに、どこをどう、とはこの段階では言えないのだが、「ひまわりになったら」はあまり男女間の恋愛っぽくない雰囲気がある。二人称が一貫して「あの子」と言う性別を特定していないものだし、「ただの友達だったあの頃」「Loveなfriend」と言う書き方もそれに絡めるともしや? と思いたくなる。
 それにこれはあまりに感覚的な書き方となってしまう、単なる私の感想なのだけれど、瑞々しく、まだ若々しいaikoの歌声が生み出す明るさと切なさは、同性同士であることも理由になって恋愛を終わらせてしまったような苦々しさを感じさせてしまうのである。(なお私自身もaiko自身も同性愛を否定しているわけではない)──もういっそ文章力も外聞も投げ捨てて書くなら、とにかく男女よりも同性同士、とりわけ年若い少女同士として読んだ方がこの曲、もうむちゃくちゃ切ないんじゃないか……!? と私が強く強く思うだけなのである。マジで。何ならこのテーマだけでもう一本何かしら文章、いやいっそ小説が書けそうなのだが、さすがにそれはここでやっている場合ではないので、さっさと次に進もう。



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