■これこそaikoたる作品
 以上、歌詞読みはここで終了となる。ここからはこの「ひまわりになったら」の歌詞を読んで、あるいは「ひまわりになったら」稿を書くにおいて色々考えたことをとりとめもなく書きながら、一応の着地を目指したい。──この曲が好き過ぎる、と言うか「ひまわりになったら」への感情が巨大すぎて、どこかゴールを設定しないと迷走したままハチャメチャに書き散らしてしまいそうなので、こういう書き方をさせていただきたい。
 今回「ひまわりになったら」について書く、と言うことで改めて歌詞と向き合ってみて、まあわかっていたことではあるが正直さらにしんどくなってしまった。もう前の二人には戻れない切なさ。重く抱える「あの子」の不在。虚しさとため息。寂しくて悲しくて、夜を越えて逢いに来て欲しいくらいに「あの子」を欲している、けれども、あたしはあの子のひまわりであろうとする……。つらい、しんどい。
 しかしそんな曲を全体的に明るくカラッとした爽やかな感じで歌い上げるのはまさしくTHE・aikoと言うよりない。わりと冗談ではなく、この曲こそaiko作品の原点とも言える可能性は十分にあるのではないだろうか。やはり「ひまわりになったら」を制するものはaikoを制するし、「ひまわりになったら」にはaikoの全てが詰まっている、と言う私の発言もあながち間違いではあるまい。原点にして頂点なのだ。文句なしに。
 ……それはまあ私が興奮し過ぎてるのもあるので聞き流してくれて結構なのだけれども、この曲でインディーズデビューのきっかけを掴んだのも納得だし、そもそも賞を受賞したことも納得だ。インディーズ時代の曲としてお蔵入りにしたままでなく、きちんとメジャーで出し直してくれたことで、昔のaikoを知らない人、これからaikoを知る人などなど、カップリング曲ではあるものの、サブスクリプション解禁のお陰もあって、沢山の人に幅広く聴いてもらえるようになって本当に良かったと思う。……出来ればそろそろ他の曲もお願い出来ませんかねえ(インディーズ楽曲セルフカバー最後となるDo you think about me?からもう十年である)


■前向きな別れ
 Cメロのところで別れについて「いっそ二人が原因ではないのかも知れない」と書いたが、aikoの失恋曲の傾向を簡単に言うと、二人の何かが決定的にずれてしまって、その結果別れる──もっと簡単に言えば「すれ違い」によるものが多いと感じる。「あたし」側が冷める流れもないではないが、例えば「あたしの向こう」のように、抗えない原因があって、それで最終的には相手側が離れていってしまった、と感じる曲がどちらかと言えば多い気がする。
 しかし「ひまわりになったら」はそうではなく、「二人でしっかり決めた事だもの」と言う歌詞もあるが、「あの子」側は「あたし」への愛が冷めたわけでも、嫌気がさしてそれとなく離れていったわけでもなさそうだ。これはあくまで解釈……と言うか考察に近いが、もっともっと、恋愛とは関係ない外的な要因が二人にはあるのかも知れない。
 外的要因。たとえば留学だとか、海外への転勤だとか、修行だとか(修行?)夢を追いに行ったとか……あらゆる可能性があるが、とにもかくにも恋愛から離れなければならない何かだ。「4月の雨」のあなたのようにあの子には夢があったのかも知れないし、その実現の為に別れなければならなかった、と言うストーリーを思い描くのも悪くない。そうなるとあたし側が未練を引きずっているのも、あの子と違って目標がないから、と言うことになるが、あたしがひまわりになった頃には彼女にも大切な夢や目標が出来ているのかも知れない。


■そして少女の時は過ぎ
 これはあくまで筆者の私の、単なる「感想」に過ぎない話になるのだが、インディーズ版の「ひまわりになったら」は、曲のアレンジはともかくとしてまだ未練が抜けきっていないような歌い方だなあと感じる。勿論aikoの声が現在と比べて圧倒的に若いと言うのもあるし、作者のaiko自身も凄絶な別れを経験して日も浅い頃の(とは言え、そこから数年経ってはいる)収録のため、とかく切なさにずぶ濡れになっているように聞こえてしまう。泣きたくなるのは圧倒的にこちらのバージョンなのだ。
 無論最初に述べた通りこれは超主観的な話だ。私も自分の恋の思い出が紐づいているので余計に補正がかかっていると言う、それだけの話だ。しかし、そんな泣きたくなってしまうバージョンは、aikoがまだシンガーソングライターとして駆け出しの頃だったからこそ出来たものであることは否定し切れないと思う。若さ、未熟ゆえの粗削りと言うか、フレッシュな頃にしか出せない勢いがインディーズ版の「ひまわりになったら」には込められている。願わくばこの音源も広く聴かれるようになって欲しい……が、さすがに難しいか。
 そこから十年の時を経た「二人」のカップリング版の「ひまわりになったら」の方は、さてどうだろう。これもやっぱり超超主観的な話なのだが、もう本当にあたしとあの子の間にも十年の時が流れてしまったように感じる。曲のアレンジはインディーズ版と同じく島やんこと島田昌典氏が担当しているが、瑞々しく、幼さすらも感じられる爽やかなアレンジから、深みとゆとり、広がりのあるアレンジになっている。それはまるで、怖いものなど何もなく、勢いと元気のある十代の少女が、二十代後半、三十代に差し掛かる頃、社会に出て色々な人間関係を経験し、それなりに達観するところのある大人に成長したように見える。
 歌っているaikoはインタビューで「気持ちは10代の頃と変わらない」と話しているものの、やはり肉体としても物理としても十年経っているのである。時間は何よりも正確で裏切らない。「あたし」の器であるaikoの歌い方や歌そのものは、本当に遠くにある思い出を眺めて歌っているようにどうしても感じられるのである。
 それに何より、これもやっぱり超個人的主観の話になってしまうのだが、リスナーの方もまた時が流れているのだ。最古参のリスナーからすればやはり十年経っている。どうしてもそう聞こえてしまうのは無理もない。……なおこれは最近aikoを聴き始めた、最近この「ひまわりになったら」を聴いたという方には無論当てはまらない話である。何度も書きますがこの段落はもはや超個人的主観話です。



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