■いつまでも、あたしの
それはやはり、一番サビと同様に二番サビでも歌われる、「Loveなfriend」だ。「あの子とあたしはLoveなfriend/離れてしまっても偶然出会っても/「コンニチハ」って笑って言わなきゃ」と、一番とほぼ変わりない歌詞が綴られる。
とめどなく溢れる様々な感情や想いをひた隠しにして、あたしは「コンニチハ」と笑ってあの子と向き合う。ここから読み取れる想いもまた一番とほぼ同様だろう。もしここで決壊してしまえば、掟を破ってしまえばそれこそ、二人の関係は今度こそ修復出来ない破滅を迎えてしまうかも知れない。ただの友達が恋人同士になった時とは違うのだ。二度目の別れなど経験したくもない。絶対的な別れだってごめんだ。言ってみればここがあの子とあたしの終着点なのだ。
きっと強がった笑顔のままでサビは続く。「辛い時はもちろん朝まで付き合ってね」だが、このくだりもまたどこか強がっているような気がする。辛い時、なんて、虚しさとため息が尽きない今がまさに辛い時じゃないのか。けれど、あたしはそんなことおくびにも出さない。もしかしたら次の恋愛で辛くなったら、と、そんな風な話なのかも知れない。そうだとしたらまさに強がりだ。冒頭に述べた通り「あなたのことばかり」なあたしに次のことを考える余裕もないだろうに、この健気な姿は実に涙を誘うものである。
そして「あの子もいつまでもあたしのひまわり」と二番が締めくくられる。あの子。恋人であり、友達であった。だけど恋人ではなくなり、その結果単なる友達でもなくなった。けれども「なくてはならないもの」と言うくらいに特別な存在だ。それこそ、世界に光を渡らす太陽のように。その化身のように咲き、人々に愛される向日葵のように。だからあたしは、唯一無二のあの子の存在を、「あたしのひまわり」と、そう定義したのである。
私は二番Aメロ前半が「ひまわりになったら」のサビでありこの曲の90%がそこにあると書いたが、残りの10%のうちの5%がこの二番サビラストの「あの子はいつまでもあたしのひまわり」にあると思っている。もっと言うと、この曲は要約すればこのワンフレーズに尽きるもので、これまでの歌詞はこのフレーズを引き出す為の長い序詞であるようにも思う。
しかしながら曲中にはこの一回しか出てこない。しかしかえって、それだけこの「ひまわりになったら」全体で「あの子はいつまでもあたしのひまわり」をひたすらに伝えていると言うことだ。むしろタイトルに則って言うなら、一番サビのところでも書いたが、「ひまわりになったら」と言うタイトルに隠されている主語は「あたし」だ。「あたしはいつまでもあの子のひまわり」と言うフレーズがどこか言い聞かせるように繰り返されるのは、今はひまわりに──あの子にとっての太陽になれていなくても、少なくとも、あたし自身はそういう想いであり続けよう、ひまわりであろう、と言うあたしの意志の表明であろう。
それがあたしの選んだ最良の道だ。あの子が自分にとってのひまわりなら、自分もひまわりでありたい。「あの子のことばかり」の「あたしの気持ち」も、いっそ養分にするくらいの勢いで隠し続け、ひまわりのように笑うのだ。
■サヨナラのタイミング、わかってた
物語は締めくくりに向かい始める。
Cメロは少し、トーンが落ちる。別れについて描かれる場面だからだろう。──きっかけが何だったか、はっきりしたことはわからない。「恋人同士になった二人色んな事を知ったの」と、恋人同士の頃もほんの少し、抽象的にしか描かれない。
いろんなことを知る。人を好きになるということは、その人のことを知りたい、と言うことで、付き合うと言うことは、友達同士では見えなかったことがどんどん見えてくると言うことだ。それは良い意味でもあるし、悪い意味も含まれていよう。ただの友達だったあの頃では得られない歓びもあっただろう。感動もあっただろう。しかしそれと同じくらい確かに、恋人同士であることでお互いに掛かる負荷、と言うものは確実にあるはずだ。その中でお互いの価値観に何らかの齟齬が生じたのかも知れないし、もっと別のことかも知れない。いっそ二人が原因ではないのかも知れない。
ともかく、二人には明確な別れのタイミングが来た。来てしまった。それは「そしてサヨナラのタイミングさえ/しっかり覚えてしまったり」と言う風に綴られる。少し不思議な、ひっかかりを感じる書き方であるが、その決定的なタイミングが二人それとなくわかってしまうくらいに──あまりにも皮肉なことではあるが──二人の相性が良かった、と言うことではないだろうか。それを二人とも無視出来なかったのも、相性の良さ、呼吸の合う二人だと、そう感じる。
あの子はそのタイミングに抗わなかったのだろうか。あたしは──どうだろう。ひょっとすると「あの子の前で死ぬ程泣いた」ことはこの別れのタイミングでのことなのかも知れない。どうであれ二人は「関係を持続させること」よりも「関係を終わらせること」の方に舵を切った。夏を越えて咲かせる為に、無理やりなことをして向日葵を腐らせるよりも、きちんと後に種を残し、時を越えて咲き続けられることを選ぶように。
それはやはり優しさと、相手との縁を捨てきれない、一種の人間臭さである。そうしてあの子もあたしも──無数の虚しさとため息と、あの子への気持ちを抱えながら──心の中で永遠に咲き続ける「ひまわり」の未来を選んだのだ。
少なくとも私には、痛々しい破局の仕方を取らなかったように読み取れる。そうしたのは、やはりあの子自身が、まるっきりあたしのことを全て嫌いになったと言うわけではなかったからだろうし、あたしのことを恋愛とは違う意味で愛していたからだと思いたい。歌詞に歌われる通り、あの子にとってもあたしはやはり「ひまわり」であったのだ。
■ずっとずっと、いつまでも
Cメロでの歌声がまるで嘆きのように響いて、そのままキーが上がって大サビとなる。「あの子とあたしはLoveなfriend/離れてしまっても偶然出会っても/「久しぶり」って笑って言わなきゃ」と一番サビと同じ歌詞を繰り返すが、Cメロの想いを引きずり、もう一緒になることは出来ない、どれだけ想っていても、自分達は並んで歩くことは出来ないんだ、と言う気持ちが込められているように聞こえて、強がって笑っていた一番サビよりもずっとずっと深く切なく悲しく響いていく。それでもきっとあたしは涙を堪えて歌っているのだ。笑っているのだ。
後半も「あの子とあたしはLoveなfriend/さみしい時はもちろん朝まで付き合うよ/あたしはいつまでもあの子のひまわり」と一番と同じ歌詞が綴られる。やはり言い聞かせるように、あたしはあの子のひまわりであることを歌う。恋人でも友達でもないが唯一無二のLoveなfriendである、その象徴としてのひまわりになるしか道はない。それが一番綺麗な着地で、一番整った解決法なのは先に述べた通りだ。そしてこう締めくくられる。「ずっとずっといつまでも あの子のひまわり」だと。
繰り返しとなるが、この曲のタイトルはあくまで「ひまわりになったら」だ。【なったら】なのだから、あたしは、今はひまわりになれていない。先述した通り未完成のひまわりである。けれども、あの子が求めてくれるなら──求めてくれる日があればの話だが──いつだって、自分はあの子にとってのひまわりでいたい、そうなりたい。たとえ求めてくれなくても、あたし自身、あの子のひまわりでいたい。──そんな健気な想いを、これまでを俯瞰したうえで私は読み取りたいのだ。
勿論これはサビでこう歌っているからであって、ずっとずっと健気で殊勝な決意を抱いているわけではないと思う。未だあたしの中は「あの子の事ばかり」で、「いろんな事思って涙が出」て「さみしい」「悲しい」「夜を越えて逢いに来て欲しい」と言う想いがあって「ふとした時に気付く虚しさとため息」に苦しんでいるのである。少し揺さぶれば一気に瓦解するような危うさの中に、あたしはいる。けれどもそんな中で切なさを押し込めて凛と立ち、あの子のいない日常を生きていくあたしこそ、まさしく太陽に向かって咲き誇る向日葵そのものであるように思う。──これは後年のaikoが描く、失恋を迎えても逞しく明日を生きていこうとする沢山の「あたし」達の、その芽生えの姿ですらあると私には感じられるのだ。
やがて時が過ぎ、【なったら】ではなく、本当にあたしが「ひまわりになった」時が来たら、あたしはようやくあの子から離れ、別の道を歩んでいけるのではないだろうか。それは一見ドライな別れと捉えられる。けれども見方を変えれば、ひまわりとなった互いを心に抱き、共に生きていくという意味でもある。恋や友情とは違い、しかし恋も友情も超える尊い関係を、あたしとあの子は離れたままで築き上げていくのだ。私はそんな祈りを、大好きなこの「ひまわりになったら」に見出したいのである。