■「瞳」を読む
 いろいろ書いてはいるものの、歌詞自体はとてもシンプルな曲であり、かつ神聖な曲でもあるので歌詞を読んであれこれ言うことすら無粋な気もする。しかしながら歌詞考察と題していて歌詞を読まないというのもおかしいので早速読んでいこうと思う。
 詞先のアーティストと知られるaikoなので、当時のエピソードを思うなら取るものも取りあえず、歌詞を書き始めた彼女がいたことだろう。「今頃がんばっているのかそれとも新しい光が/青白い瞳に映っているのか」と歌い出される。出産の際、母体は激しい痛みと戦うが、産道を通る赤ちゃんもまた苦しいと聞いたことがある。それならば、出産に臨む親友へ向けていると言うより、今まさに生まれんとしている「あなた」のことを言っているのだろう。青白い瞳は、どこかでaikoが言及していたが生まれたばかりの赤ちゃんの瞳は青白い、とのことだ。
「あなた」が生まれんとしているのか、「あなた」が生まれ、瞳に光を宿している頃だろうか。ほぼaikoそのものである「あたし」は誕生を祝うため「間に合うように届けようと遠慮がちに歌います/“Happy Birthday to You”」とメロディを奏でるのである。背景を考えれば、これはCD化すらされない、ごくごくプライベートな曲で留まるはずだったであろう。架空の「あたし」ではなくもろにaikoその人が出ているのはどこか微笑ましくある。
 優しく「あたし」はこう言う。「これから始まる毎日にきっと降り続けるのは/小さくて大きな生きる喜びでしょう」と。毎日起きる出来事は小さくても、その一つ一つが大きいのだ。このBメロの短いフレーズだけでも最大限、清らかに誕生を言祝いでいる。もう一種の賛美歌ではないかとさえ思えてくる。aikoが「すぐに出来る曲は想いが強い」と言っていたことを思い出す。
 サビは冒頭に書いたようにハミングのCMや、「彼女」のCM&PVでも使われた部分だが、冷静に向き合ってみると多方面にいろいろとダメージが多いような歌詞である。生まれたばかりの赤子に「健やかに育ったあなたの真っ白なうなじに/いつぞや誰かがキスをする」なのだから。ちなみにこのフレーズの「いつぞや」は思いっ切り誤用ではあるが(本来は疑問文で使われる疑問詞で、正しくは「いつかは」)意味は通る。「ぞ」は強調に使われる係助詞だし、「や」は疑問の終助詞だが感嘆符にも取れるので、結果的には誤用している方が文章を強調出来ていて良いのではないかと思う。
 このことについてはこの辺にして、生まれたばかりの子供を思うと、誰かが「あなた」のうなじにキスするいつかはあまりに遠い未来であるし、母親はまだしも父親からするとなかなかにショックが大きいフレーズである。うなじという辺りが実に生々しいのでaiko何考えとるんじゃ、と思わなくもないが、そういう未来もやってくることを隠さない。そして時を重ねていくということは、別れもまたやってくるということも隠さない。「胸を体を引き裂くような別れの日も/いつかは必ず訪れる」と最後に「あたし」は歌うのだ。
「胸を体を引き裂くような別れ」。安易に考えれば恋人との別れかも知れないが、私がこの曲を初めて聴いた時からなんとなく抱いているものは、AメロやBメロで言祝がれている誕生と対極にあるもの、即ち誰かの「死」である。
 例え恋人と別れても、生きている限り同じ世界にいる。けれど「死」はどうだろう。どうあがいても手の届かないところに行ってしまう。手を伸ばしても掴むものは空虚ばかりで、声を掛けても何のこだまも返ってこない。同じ存在が再びやってくることは絶対にない。そう、そんな絶対の理の前に従うしかない時が来ることを、生きている以上私達は知っているし、知ってしまう。それを何の断りもなく書いてしまう辺り、aikoの「物事は必ず終わってしまう」と言う哲学をどうしても感じさせるのである。
 けれど「そんな時にもきっとあたしがあなたのそばにいる」と締めくくるように、「あたし」と言う存在はここで初めてあなたのそばにいることを約束してくれるのである。しかし先述したように、「あたし」の登場はこれが最初で最後だ。

■あなたのそばにはもういない
 二番を書き出したのはいつ頃なのだろう。二番以降は正式にレコーディングすると決まってから書き出すという制作方法を取っているaikoなので、もしかすると一番の誕生から一年以上の隔たりがあるかも知れない。しかしこの時間差が上手い具合に作用して、他の曲よりぐっと哲学的な歌詞の世界になったように思う。
 誕生とその祝福を描いた一番から一転して、二番は「最後」を歌うところからスタートする。歌詞上では「最後」とあるが、ニュアンスとしては「最期」であると思う。「明日最後を遂げるもの明日始まり築くもの」と、生と死――太古の昔から変わらない、巡る命の営みをどこか厳かに語り出す。
 一番では生を受けたばかりのあなたは少し、成長しているらしい。「時が過ぎて花を付けたあなたの」と書いたaikoの脳裏には自分が誕生を祝福した親友の娘の姿が浮かんでいたかも知れない。その子もまた、多くの生と死、別れと出会いを繰り返していく。「小さな心の中に/一体何を残すだろう?」とあるように、別れは何かを失うだけでも、奪っていくだけでもない。多かれ少なかれ残されていくものがある。悲しみだけでも、当然無い。そしてまたこう記される。「“Happy Birthday to You”」と。善いことばかりではないかも知れない。悲しみや苦しみなど嫌という程ある。何一つ報われない、呪い呪われる世界だとしても、それでも祝福する。
 それは誰か、何か大切な存在に出会えることを私達が知っているからかも知れない。続くBメロではこう綴られている。「しっかりと立って歩いてね よろめき掴んだ手こそが/あなたを助けてあなたが愛する人」と。「あなた」の手を取る人は「あたし」ではない。そもそもこの二者に面識すらないのかも知れない。そばにいるはずだった存在の「あたし」はそっと離れていく。
 サビにも「あたし」はいない。けれど大切なことを教えていく。「瞳に捉えた光が眩しい日は静かにそっと目を閉じて/昔を紐解いてみればいい確かなあの日/小さな手のひらに無限の愛を強く握って笑った/あなたがいるから大丈夫」と。現実が苦しい時は一度思い返してみればいい。どんな存在でも小さな子供だった昔は、その両手に母と父、育ての親の愛を一身に受けていたはずだ。その頃は現実の苦しみなど知らずに笑っていたはずだ。本当はそんな無垢な笑みこそが、この世界を生きていく上で一番大切なことなのかも知れない。
 たとえ今の自分が嫌いでも、過去とは世界に刻まれた歴史であり記録だ。かつてあったことを誰もなかったことには出来ない。筆者の想いがとめどなく溢れてしまうのだが、ここで泣かない人などいるのだろうか! というくらい好きな部分であるし、aikoついにこういうことが書けるようになったのかと感動したのは何を隠そうこのサビでである。勇気と癒しをもらえる大好きなパートで、しかし今思うのは、では「あたし」はどこへ行ってしまったのだろうか、ということである。過去の日のあなたがいるから大丈夫だよと励ました「あなた」のそばに、もう「あたし」はいなくなってしまっている。
 大サビでは一番サビと同じように「健やかに育ったあなたの真っ白なうなじに/いつぞや誰かがキスをする」と繰り返すが、ラストは一番とは少し、けれど大きく違う。「そしていつかは必ず訪れる/胸を体を頭を心をもがれるような/別れの日も来る」――前よりも持っていかれるものが多い。何もかも失うかのような大きな喪失は聴いている者をどこか不安にさせる。一体誰との別れなのだろう。だがそんな「あなた」のそばに、「あたし」ではなく二番Bメロで示唆した「愛する人」がそばにいるでしょうと予言することでこの壮大な曲は締めくくられる。ピアノの後奏はあくまで優しく、けれどどこか寂寥感が残ることだろう。
 ざっと読んではみたが、誕生と別れを一つに詰めた曲でスケールが大きく、かつ隙が無い。文句のつけようもない名曲であり、多くの人に愛されるのも当然と言ったところである。

■あなたのそばを離れるいつか
 優しい祈りが込められた一番では傍にいて、二番ではそれとなく、「あたし」がもういなくなることを匂わせる。そして大サビでは「あたし」は既に消え、愛する人が傍にいるようになっている。「あたし」から遠ざかっていくのではなく、「あなた」が大きくなっていくにつれて自然と離れていく、と言ったところだ。「目には見えない存在」と先述したが、「あたし」は子供の頃には見えていた何か、あるいは比喩として、子供の頃には持っていて大人になるにつれ失ってしまった何か、の擬人化のようにも思えてくる。
 自分がいなくなっていくこと。そのことに何の疑問も持たず、拒否もしないこと。「あたし」はこの一曲をかけて、いや一番が終わった時点で「あなた」の傍を離れるのである。まるでこの曲で歌われる別れや最後を己自身が表すかのようにだ。
 いや、きっとそうなのだろう。生まれた頃から傍にいたであろう「あたし」が、成長していくにつれてそっと消えていくこと。けれど誰かがきっとあなたの傍にいるということ。その寂しさと希望がこの曲の描く生と死、出逢いと別れというテーマを十二分に物語っている。
 ただ、そう読んでしまうのは筆者である私自身が「あたし」の存在に、他の曲よりaikoその人を感じ取っているところが多分にある所為だと思うことを断っておきたい。そして私がこの世で一番恐れている別れは物理的にしろ何にしろ、aikoとの別れだ。
 いつもいつも「瞳」を聴く時、大サビの「胸を体を頭を心をもがれるような別れ」で、aikoとの別れを意識してしまう。これは最初に聴いた時からずっと変わらない。どうしたって生きている以上aikoとの別れはいつか絶対来てしまうのだ。
 私自身が去るのか、aikoが去っていくのかは未来である以上わからない。でもそれはきっとaikoも意識しているはずだ。幼い頃体が弱かった故に彼女は常に「終わり」を考えてしまうのだし、19年も活動しているということは、それだけファンとの別れ――死別を否応なく経験しているのだ。彼女発売時の「SWITCH」インタビューにて白血病のファンの少女との出逢いと死別の一部始終が綴られていたが、あれは05年の頃の話で、今考えてみると「瞳」の二番以降制作時に多少なりとも影響があったかも知れない。05年と言えば同年に起こった福知山線脱線事故でも、aikoファンの子が犠牲になったことが触れられていた。「いつかは必ず訪れる」「別れの日」を正直に歌詞に表すのも、この世界を生きる上で逃げようがない理であると、aiko自身がどこまでもわかっていたからなのだ。
 ならば、aikoも私達も、どうするべきなのか。――これ以上のことは「瞳」考察を逸脱することになるので筆を置くが、そのことを考えられるということは、同時にもうその答えも解っているように思う。たとえ、それが読みが甘過ぎると人から言われる答えだとしても。

■おわりに
 それまでのaikoには描けなかったであろう世界に、当時も今も賞賛を送るし、やはり「瞳」は多くの人に聴いてもらいたい。けれども同時に、それまでのaiko、それからの、そしてこれからのaikoを思うと、そんな特別な曲はこの「瞳」だけに、「瞳」の特権しておいて欲しいな、というわがままな気持ちもある。私はやっぱり、「あなた」と「あたし」の狭い世界で恋愛をベースに様々な世界を描き、己の哲学を語るaikoの音楽と文学が好きなのだ。――かといってそればっかり注目されるのもしゃくなので、「瞳」は今以上にもっと大勢の人に聴いてもらい、今までのaikoとは違う世界にこれは! と思われたいし、世代を超えて愛される曲になってもらいたい。いや、もうなっているだろうか。
「瞳」を贈られた少女は今、十三歳になる頃だ。これから沢山恋をするだろう。友情も育むだろう。出逢いと共に終わりも迎えるだろう。是非ともaikoの音楽と共に青春を謳歌してもらいたい。いちファンとしてそう願う。そしてもう一度「瞳」を聴いた時、幼い時とは違うものが見えていて欲しい。十九周年を迎えるaikoも、これまで以上に違うものを、歌で会報でアイコメでライブで、ファンの私達に見せて欲しいと思う今日この頃である。

(了)

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