星降る夜に羽ばたいて -aiko「カブトムシ」解釈あるいは鑑賞のしおり-



■カブトムシ概要
「カブトムシ」は1999年11月17日にリリースされたaikoの4枚目のシングルであり、このページを読んでくださっている諸兄らには説明不要のaikoを代表する一曲、どころか、おそらく世間全体の目で見ても一番有名な曲である。朝の情報番組で少し宣伝に出る際でもPVやライブ映像が紹介代わりに流されるし、先日「湿った夏の始まり」のPR期間に放送されたスペースシャワーTVでのランキングでも一位を獲得していた。2005年と2006年のオリコンスタイルにおける「音楽ファン二万人に聞いた好きなアーティストランキング」で二年連続一位を獲得したaikoであるが、その際の好きな曲一位も二年連続して「カブトムシ」だった。五月末、FM OHにて四日連続行われた、シングル曲を全部オンエアする企画「私とaiko」においてもトリを飾ったのは「カブトムシ」だ。とかく、aikoと言えばカブトムシ、なのである。勿論、ベストアルバム「まとめⅠ」にもばっちりしっかり収録されている。
 かく言う筆者はどうなのかと言うと、ラジオのパワープレイであった「花火」で殴られaikoを知ったのだからその次の「カブトムシ」でも当然殴られたであろう、と思いきやカブトムシの印象は実はほとんどなく(ごめんね)一つ飛ばして「桜の時」で再び殴られたのがきっかけで「桜の木の下」をレンタル落ちで購入しaikoと言う沼へ足を踏み入れたと言う経歴である(なお思い切り沼に落ちるのは約一年後)別にバラードが嫌いだったわけでもなく(むしろここ数年はバラードばっかり好き)たまたまその時の私のアンテナがカブトムシを感受しなかったのだろうと思う。モノや人にはティンと来る時やタイミングと言うものがきっとあって、それがカブトムシではなく次の桜の時だった、と言うだけだ。
 しかしその印象の薄さが後々まで影響しているのか、それか単に「なんでえ、世間様はaikoを見ればカブトムシカブトムシばっか言いやがって。他にもいい曲あるんだゾ」というやっかみや僻みの表れか、個人的に「カブトムシ」にそこまでこだわりもなければ、実を言うとそんなにいい印象もなかったのであるし、どうにも複雑な気持ちを抱いていた(て言うか、お前らえりあしの方が好きだろ的なスタンス)勿論、aikoの曲だから好きと言えば好きだし、最近の、伸びやかで表現力豊かなaikoの歌唱によるカブトムシは本当に絶品だと深く感じている。またアルバムの特典などでアレンジ違いを収録するとか、セルフカバーをしてくれないかなとも思っているくらいだ。
 しかしながら今回改めてこの知名度トップの作品と向き合ったことでしみじみ、「ああ、いい曲だな。これは皆が一番だと言うのもわかる」と感じもした。どうにも語彙が足りない身ゆえ、どこまで私の感動を言葉で表現出来るかわからないが、少しお付き合い頂きたい。

■忙しなさの中で
 aikobonのライナーノーツではキャンペーンで忙殺されていた当時のことをいかにもしんどそうに語るaikoが伺える。「花火」と「カブトムシ」と言うaikoの代表曲、つまりこの二曲が無ければaikoの今の知名度も無かったと言える程重要な曲となった二曲の売り込み、それに付随するPR活動は本当に並大抵のものではなかったらしい。殺人的なキャンペーンの思い出は「花火」の方に紐付かれているのかそちらのライナーノーツの方で多く語っているが、「カブトムシ」もレコーディングの時点から悩まされるものだったらしい。
「ホントに大変でした(笑)何回レコーディングしたかな……ボーカルだけでね、四回から五回くらいスタジオ入ったんです、もう何百回と歌ったの。事務所の社長が納得いかなかったらしくて……。で、私は何が良くて何が悪いのかわかんなくなっちゃって。ほんとに調子悪くても歌いまくって、もうね、その当時二度と歌いたくないと思ったんが「カブトムシ」っていうくらい何百テイクも録ったんです(笑)」
 知られざるレコーディング秘話である。普段CDが出来るまでの裏側など調べない限りわからないので、あのaikoが歌いたくないとまで言うことがあったとは、と軽く絶句したものである。
「キャンペーンでは、ラジオの公開で琵琶湖を目の前にして歌ったりとか。お客さんやないねん、琵琶湖やねん、前が。琵琶湖に向かって歌った(笑)」
 このエピソードに関してはライブDVD「15」の二時頃の後のMCでも少し話している。今回LLP20のライブツアーでついに滋賀初公演を迎えるが、おそらくこのことにも言及するのではないだろうか。(それを聞きたいのもあるが単純に会場がすごく素敵な所で行ってみたいので、是非ともチケットご用意されたい)このMCでも話していて、そしてaikobonにも書かれているが高音が出ずに苦労したようだ。
「キーがとても高いし。このときも「花火」同様、とても忙しかったので、コンディション的にもあんましよくないんですよね。♪生涯~が出ないんですよ。だからメロディ変えて歌ったりしてましたね」
 よく不思議に思うのだが何故かこの年代の曲は「いかに高音を出せるか」といった妙な風潮があった。少し脱線するがaikobon冒頭のプロフィールインタビューにてドーテイオムニバスに収録されているAB型の二人について言及している辺りで、aikoも「当時は、その高いキーを歌うことに対して、すごいステイタスを抱いてて。みんなに「高い! すごいね!」って言われるのが嬉しくて、キーの超高い歌ばっかり作ってたんです」と話している。ひょっとすると「カブトムシ」のファルセットもこの時代の名残のようなものがあるのかも知れない。
 閑話休題。「カブトムシ」は美しい夜が舞台となっている曲だが、出来たのは朝方だと言う。季節は不明だ。
「この曲のできたきっかけは、FM OSAKAでレギュラー番組をやっていて、夜中2時から5時までの生放送なので、おうちに帰るのが朝方なんですよ。朝帰ってきて、日曜日の朝7時くらいにできた曲。メイワクですよね、こんな時間にピアノ弾いて。7時くらいに帰ってきて、そのまますぐにピアノ弾いて作ったんですよ」
 今現在も昼夜がひっくり返った生活をしているaikoらしい曲作りと言える。歌詞は曲と共に出来たのか、元からあったものかもわからないが、夜の曲が朝に誕生するというのも何だか不思議な趣があっていい。忙しさの中で誕生したものかどうかもやっぱりわからないが、伺えるように「カブトムシ」はリリース前後が大変だった。次にaikoが語るように、「カブトムシ」はその所為で、aikoから少し一人歩きしてしまったところがあったのかも知れない。
「でも私は「カブトムシ」という曲が、こんなにみんながいまでも「カブトムシ」「カブトムシ」って言ってくれたり(中略)ほんとにこの曲のよさっていうのを自分自身把握する間もなくリリースされたっていうのが実は正直なところなんです」
 いかにも忙殺されていた当時をしのぶような語り口である。あくまでいちリスナーでしかない筆者も「カブトムシ」がやたら持て囃される世間に対して抱く気持ちは、aikoの言葉を借りるなら「この曲のよさっていうのを把握する間もない」ような、どこか置いてきぼりの気持ちと近いのかも知れない。aikoが「カブトムシ」の良さを実感するのはもう少し経ってからだ。
「自分はやっぱり客観的に自分の曲聴くのには時間がかかるんですよね。リリースは11月ですよね。でも私の体に客観的に染み込んできたのは12月くらいなんです、あぁいい曲だなぁって。出てからやっぱちょっと経ってからだったんですよね。自分も青かったし、やっぱバラードとかっていうのはすごい難しくて、こんなにみんなからリアクションもらえるなんて思ってなかったんですよね」
 ようやく落ち着きを得て、やや一人歩きしていた名曲にやっと追いつき、抱き締め、良さを噛み締めることが出来た。色々と大変だっただろうが、「花火」と「カブトムシ」で駆けずり回ったからこそ今のaikoがいるのだと思える。二十年近く前のこの二曲が今も愛されているのも、単純に曲の良さだけでは説明出来ないものがあるのではないだろうか。

■ほんとは弱くて寂しくて
 ところで唐突だが私はこの「カブトムシ」を今から十ウン年前、高校三年生であった時分に総合授業の一環で一度考察めいたものをやったことがある。紛失したと思っていたその原稿がこの間ひょっこり出てきてしまった。その当時のイキッた自分の文章など読めたものではないので敢えて内容には触れまいが、その時既にaikobonが刊行されていたので、作者の言葉があるなら必ず参照しろと言う教えのもと、あまり読むまいと何故か思っていたライナーノーツを開いたのを覚えている。そしてそこで語られていることに、当時の私はとても衝撃を受けたのも、はっきりと覚えている。
「昆虫の中でいちばん強い、ライオンみたいな存在じゃないですか、カブトムシって。甲羅もすごい硬いし」
「でも甲羅なんて1枚はがしてしまえば、すっごい柔らかくてすごいもろくて、強いがゆえにすごく単体で生きてる、実は寂しい虫なんじゃないかなぁって思って。甲羅は、自分を守るためでもあるけど、虚勢を張ってるようにも見えるし。って思って、そういう連想ゲームがしゅしゅしゅしゅ、って頭ですぐ」
 カブトムシと言う曲名の意味は単に、よくメディアでも紹介されているように、あなたに惹かれたあたしを樹液に惹かれるカブトムシに喩えたくらいの考えしか無かったし、当時はそれなりにaikoに対して攻撃的でもあったので、もっと穿った見方をしていて、自分を醜いもの(虫)に喩えたところもあるんじゃないかと暗に思っていたりもした。
 だが違った。aikoの語るその真意は、当時の私には本当に思いもよらないものだったのだ。カブトムシと言う虫を「甲羅なんて1枚はがしてしまえば、すっごい柔らかくてすごいもろくて」なんて捉えたこともなかったし、「実は寂しい虫」「甲羅は、自分を守るためでもあるけど、虚勢を張ってるようにも見える」と思ったことなども、ついぞ無かった。aikoと私では物の見方が決定的に、あまりにも違い過ぎているのだ──と多大なるショックを受けたかどうかまでは覚えてないが(まあ大体いつもショック受けてるから多分受けてる)その捉え方、解釈の仕方が当時の私にはとにかく大変にセンセーショナルだった。単に「あなたに惹かれたあたしを樹液に惹かれるカブトムシに喩えた」ものだと思っている世間一般に大々的にその裏にある真意を今でも教えて回りたくてたまらなく思っている。(ところで夏休み子ども科学電話相談オタクの筆者からすると、カブトムシを始めとする甲羅を背負う昆虫達を一概に弱いと切り捨ててしまうのもどうかと思ったりするのだが、それは歌詞研究とは全然違う話になってしまうのでぼやく程度にしておく)
 それもしょうがない話だ。このaikoの、楽曲が生まれるきっかけとなった解釈を知っているのと知っていないのとでは、「カブトムシ」の歌詞世界は全く違って見えてくるだろう。それくらい重要な解釈なのである。勿論あくまでこの解釈は「そういう連想ゲームがしゅしゅしゅしゅ、って」と語るように「カブトムシ」を生み出す触媒に過ぎず、あまり崇拝してしまうのも問題なのだが、それでも私は見過ごせないと思っている。このaikoのライナーノーツを元に、歌詞を紐解いていこう。

■あなたとあたしの今
 まず印象の話をさせて欲しい。カブトムシは二番までのシンプルな曲構成で、歌詞も他のシングル曲に比べると短めだ。一連まるまるリフレインする箇所もないので、胸の内に在る想いを端的に、過不足なく抜き出している優秀な小品でもある。何と言っても、フレーズの描写の繊細さが美しく、またこれも多過ぎるわけでなく、要所要所にあってメリハリがきいている。
 そしてこれはめちゃくちゃ個人的な印象だが、おそらくaikoの曲中で歌詞というよりも「詩」と言う呼び名が最も相応しい曲ではないだろうか。とは言え詩に関しては全然不勉強なので何も気の利いたことは書けないのであるが、そのまま教科書に掲載されていてもおかしくないと思う(実際、松任谷由実の「春よ、来い」のように将来的に教科書に載ることがあったらこの「カブトムシ」以外にないだろう、知名度的な意味でも)更にもっと言うと、詩と言う文芸──時間芸術の次元ではなく、空間芸術の次元にすら及んでいるようにも思う。脳裏に浮かぶ各フレーズの描写は連続した物語と言うよりは瞬間瞬間をキャンバスに描き、見る者の心に訴えんとする絵画もかくや、と今回歌詞を読んでいてしみじみ思えたのだ。この曲に関しては読解でも考察でもなく、解釈が一番相応しい。いや、ただの鑑賞のしおりでしかないのかも知れないが……。
 弱音はさておき早速読んでいこうと思う。「悩んでる体が熱くて 指先は凍える程冷たい」と、熱と冷の対比からカブトムシは始まり、「「どうした はやく言ってしまえ」そう言われてもあたしは弱い」が続く。aikoのライナーノーツの話を踏まえると、「弱い」がこの一連だけでなく、カブトムシ全体のキーワードでもあるのだろう。ところで最初に聴いた頃から「どうした はやく言ってしまえ」は一体誰の言葉なんだろうなあと常々疑問だったのだが、おそらくは内なる自分と言う読みが無難かと思う。
 と言うのも、続くフレーズでもあたしの中の不安や葛藤の描写が続いているからだ。「あなたが死んでしまって あたしもどんどん年老いて/想像つかないくらいよ そう 今が何より大切で・・・」と、何を言おうとしているかは判然としないものの、迫り来る時が「あなたの死」を筆頭に大事なもの全てを静かに奪っていく、誰もが抗えない世の理を前に、ちっぽけな人間(のちのち喩えられるように、かぶとむしと言うちっぽけな虫でもある)のあたしはなすすべがなく、伝えたい言葉でさえも伝えられないし、未来を想像も出来ない。
 そう。あたしは「今が何より大切で・・・」と吐露している。後年に発表される「大切な今」と言う曲もあるが、歌詞研究を続けていてわかってきたことだが、aikoは“今”や“一瞬”と言った瞬間的な時間に何よりも重きを置いている作家である。この理念はaikoの活動初期から既に確固としてあるようで、カブトムシもまた例外ではなかった。

next

歌詞研究トップへモドル