風と、いつか訪れる暁 ― aiko「風招き」考察



■はじめに
 私はかつて、これと言って深く言及するつもりはなく、ブログのとある記事でサラリと書いたのだが、この曲はいわゆる「ぼっち」の曲ではないか、と考察を立てたことがある。根拠とするフレーズは一番とラスト大サビ前で歌われる、「風招き」の中で最も印象深く、強烈なこちらである。

 独りぼっちが好きと吹いて回った
 心細くて死にそうな夜をこえる為に

 一番第一連で「テレビの中の向き合う人達 羨ましいと思った」とあるように、賑やかな中に入りたくても入っていけず、出口のない孤独を持て余す人の歌なのだろう、と。ひとりぼっちに孤独の「独」があてがわれていることから、この曲を孤独という観点から考えてみることはオーソドックスな解釈の仕方だろう。
 ところで、「風招き」が収録されているアルバム「暁のラブレター」そのタイトルの一部である「ラブレター」が登場するのは二番のサビ前である。

 封を閉じれないラブレターの様
 言えないまま溢れてゆく言葉は闇に埋もれ

しかしながら、あくまでもこのフレーズは比喩表現でしかないと思われる。風招きはラブレターの曲ではない、ということだ。「封を閉じれない」ということは「出せない」わけであり、続くフレーズ「言えないまま溢れてゆく言葉は闇に埋もれ」と対応する。無論、aikoと言えば恋愛を歌った歌手であるが、全ての曲がそうとは限らない。「風招き」が明確に恋愛を描写しているのは二番の第一連(Aメロ)である。

 あなたの横に座った時思わず肘と肘が触れた
 このまま時間が止まればいいと何度も祈った

 しかしこの一連だけで「風招き」を恋愛の曲だと、恋愛という狭い次元に落とし込むのはちょっと乱暴であろう。恋愛も当然含めた、広い意味での孤独を歌う歌なのではないかと、私は読みたい。
 考えてみれば、恋愛ほど孤独を実感する現象はないだろう。なるほど確かに、両想いでも片想いでも、想い慕う相手がいるということは他者の存在の確認と、自分が孤独ではないという認識の獲得である。しかし同時にそれは、相手がその場からいなくなることで、どうしようもない程の孤独を実感することでもある。どれだけ想っていても相手には届かないことを実感するしまうことで得てしまう、ほとんど絶対的な孤独もあろう。
 話が逸れた。閑話休題(あだしごとはさておきつ)。「孤独」と言うキーワードを候補に置きつつ、aikoのライナーノーツを開こう。
「すべての夜」では夜を肯定しているのに対し、風招きは「楽しい夜もあれば、我慢できない夜もあって」とある。どうも夜の負の面を歌った曲であるらしい。
「この日はひとりで家にいることが寂しいと思ったんですよ。テレビの中ではみんなが楽しく喋っていて、それを見て普通に「いいな〜この人たちは」ってホントに思ったんですよ」と、フレーズそのままのようなことを書いている。

「タイトルは自分で風を起こすという意味ですが。何事でもちょっと動くと風って吹くじゃないですか。だから何でもやっぱり自分から動き出さないと何も変わらないんだなって。夜が怖いからって、怖いよ怖いよって隅で泣いているだけじゃないなぁって思って書いた曲でしたね」

 この部分はかなり重要な証言だ。締めの方でもう一度参照したい。
 それでは歌詞を見ていこう。まず「風」とは何かを歌詞から簡単に探る。おおまかに四つに分けてみた。

 一・「あたし」は「風」を転がせる立場にある。
 二・「風」は「あたし」の口を塞いでいく。
 三・「あたし」の心は「風」と切り離せない。
 四・切り離すことは可能。しかし、「心」と「風」を切り離した時、「楽に笑え」ることが出来るようになるかわりに、「本当の喜び」を諦めなければならない。

 一以外は正直ネガティブな事柄である。この曲の「あたし」はaikoが言うような、「夜が怖いからって、怖いよ怖いよって隅で泣いている」ような印象が全開である。


■「風招」と「嘯き」 「強がり」と「嘘」
 さて、この曲を「かぜまねき」と読んでいた人は多いのではないだろうか。かく言う私もそうである。正しい読みを知ったのは、それでもかろうじて発売当時の高校一年生の時だった。おそらくaikoがラジオか雑誌か、どこかのメディアで発言したものを見た(聴いた)のだろうと思う。余談であるが、古語形容詞「をかし」の語源であるという説も聞いた。これは受験生の頃で、「手元に招き寄せておきたいほど興味深い、趣深い」という意味からきているらしい。長らく真偽不明だったが(のわりには結構あちこちで書いてた)この度角川古語大辞典で引いてこの説があることをようやく確認出来た。
 当時は方言か何かか、特殊な読み方だなあ、と思ったものである。何しろ今でも間違っているサイトを見かけるくらいなのだ。「陽と陰」と並んで難読な曲名である。おそらく難読度では「風招き」の右に出るaiko曲はなかろう。
 私がaiko曲名以外でこの「風招き」と言う語句に出会ったのは、高校一年生の時から数えて7年弱も経過した日のことである。大学の講義で「日本書紀」のある箇所を参照した時に出会った。そしてそれが「風招き」――否、「風招(かざをき)」の初出との出会いであった。日本書紀・神代下・第十段の、海幸山幸伝説の部分である。
「風招」はそこで「風招は即ち嘯(うそぶき)也」と書かれている。

  又兄海に入りて釣せむ時に、天孫、海濱に在して、風招を作たまへ。風招は即ち嘯なり。
  (日本書紀・神代下 第十段(一書第四)より)

 兄の海幸を降伏させる為に風を起こし、溺れさせる作戦である。まんまと溺れてしまった海幸は山幸に許しを請い、永久に山幸(火折尊・彦火火出見尊)の俳優(わざをき)の民になることを約束するのである。が、今は関係ない、こちらからの解釈はいつかオマケとしてブログかどこかで語ろう。割愛する。ちなみに「古事記」の方の山幸彦と海幸彦の伝説には風を起こすといったシーンはない。(さらにちなみに、「風招」の用例は、探せば他にもあると思うのだが、どうもこの一例のみらしい。aikoの「風招き」って、もしかしておよそ1300年ぶりに登場した用例だったりして。aikoが何故こんなどマイナーな言葉を知っていたかについての考察は以前ブログに書いたのでそちらを参照にして頂きたい)

「風招」はここで、「風招は即ち嘯(うそぶき)也」と書かれている。
 さてその「嘯」、動詞として表すと「嘯く」だが、(確か)センター試験の頻出問題でもあるほど、いろんな意味を持つ複雑、と言うより何となく「煩雑」に近いような、そんなめんどくさい動詞である。次のように、大まかに六つの意味に分けることにする。

 一・口をすぼめて息を強く吐き、また音を立てる。ふうふうと息を吐き出す。
 二・詩歌などを低い声で口ずさむ。吟詠する。
 三・口笛を吹く。また、あるものを見て感嘆のあまりため息をつく。
 四・虎などが吠える。鳥などが鳴き声を上げる。
 五・照れ隠しにそらとぼける。また、開き直ったり得意になったりして相手を無視する。
 六・強がりを言う。大きなことを言う。
 (日本国語大辞典より一部抜粋)

 また、「うそ」が含まれる字面ゆえに「嘘をつく」という誤った用法も世間には広まっており、「嘘吹く」と言う誤表現も広まっているらしい。「吹く」と言えば「ほらを吹く」も、そういえば嘘をつくと言う意味を持つが、まあ、言葉はナマモノであるので誤った意味もそのうち正しい意味になるかもしれないし(事実、私達が使っている言葉で、かつてはそれが正しい意味でなかったものなど、ごまんとある)「嘯く」に関してはもう半ばなっちゃってる感じである。少なくともなりつつあるのが興味深いが、それはさておき、この「嘯く」の意味の一つに「強がりを言う」がある。
 そもそもこの「強がり」に、既に「嘘」が含まれているような気はしないだろうか。強がり。言い換えるなら「虚勢」である。「虚」は「嘘」のつくりにも表されているように「うそ」と言う意味だ。
「風招き」に組み込まれている「嘘」とは何か。――楽曲を聴いている人ならば、自ずと答えは知れている。最初に挙げたこのフレーズである。

 独りぼっちが好きと吹いて回った
 心細くて死にそうな夜をこえる為に

 そしてサビの、このフレーズも見落とせない。曲の冒頭から既にここに、「嘘」は登場している。

 小さな嘘をいくつもついたね
 だから涙が止まらないのね

 この「小さな嘘」がサビ前のフレーズを指すのかは、ひとまず置いておく。「独りぼっちが好き」と「吹いて回った」のであるが、その目的は「心細くて死にそうな夜をこえる為」だ。「独りぼっちが好き」なくせに、夜は「心細くて死にそう」なのだ。これはまさしく「虚勢」であり、「強がり」に他ならない。それを、「吹いて回った」という表現で綴ったのは面白い。これこそまさに嘯(うそぶき)ではないか。
「独りぼっちが好き」と「嘯いた」と言い換えることも可能であり、「嘯く」の「口笛を吹く」と言う原初の意味をとれば、この曲の「吹いて回る」は「嘯」であり、嘯とは即ち、「風招き」となるのだ。
 だが最初に見た通りこの曲において「風」はあまりいい意味にはとられていない。そもそも初出の日本書紀からして、海幸は山幸の起こした風に苦しめられるのである。(正確には風で起きた波で)

「風」とは何なのだろう。
 ここでブログ「たまきはる」にコメントくださった桜の時氏の解釈を一部引用したい。自分の解釈は後に述べることとする。

 息を吐くことを今でも「フー」と表現しますが、「フ」という音自体が風を意味すると思われます(吹くや嘯くの「ふ」はこれから来ているのでしょう)。それを踏まえると、「封を閉じれないラブレターの様 言えないまま溢れていく言葉を闇に埋もれ」は「封」「ラブレター」「溢れて」と「ふ」が連続している点が注目されます(これは頭韻と思われます)。
 ここでは風ではなく、言葉が溢れていくことを述べていますが、この点からすれば、風とは言葉のメタファーとも解釈でき、「闇に埋もれ」とあるように、口から出ていくが、相手に届かない言葉を風と表現していると考えられます。この部分からは古代に使われていた言霊という言葉も連想されます。また「封」という言葉自体が風招きの語義か来たのかもしれません。「体から抜け出す様に次々とこぼれていく滴」もこの部分と似た表現で、滴は風・息・言葉のメタファーと考えられます。


 実に慧眼である。桜の時氏は押韻や音に特に注目し歌詞を読まれるので、自分ではなかなか気付けないことや出来ない発想を豊かに報告してくださるので感謝の限りである。(先の嘯きの件に関してもほとんどは桜の時氏のものを流用しているようなものである)
 なるほど、「フ」と言う音に注目するならば、一番の「滴」が、aikoの歌唱によくある現象であるk音のh音変化によって「しずふ」になっているのも何か意味ありげである。
(ちなみにこの現象は逆(h音のk音化)の方が多い。おそらく声門摩擦音であるh音(厳密に言えばハ・ヘ・ホ)、硬口蓋破裂音であるk音(キは軟口蓋)、両者の発声の位置が近しい故かと思われる。aiko自身はこの現象を「クセ」と言っているそうだが。特に顕著な例・「帽子と水着と水平線」始まっていた→かじまっていた・「キスする前に」ハート→カート)

「風」は「強がり」や或いは「嘘」を含む「言葉」のメタファーとして解釈した桜の時氏のそれを私も用いようと思う。
 そこ踏まえて、新しい解釈をちょっと導いていきたい。

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