■一人一人の隣に
 切なる願いを織り込んだ楽曲はラストへ向け、ストリングスの演奏を迎え盛り上がっていく。ラストは、ざっくり言えば一番Bとサビの繰り返しではあるが、当然のことながら二番の歌詞の意味もこの流れでは汲まれている。「枯れずに咲いて 自惚れ愛して泣き濡れ刻もう/螺旋描いて 渦に潜って二人になれたら」──ずっと咲いていたい。君に対して自分が一番だと自惚れていたい。君を愛していたい。泣いてもいいから、全部を刻もう。海に深く深く潜っていくように、二人きりになれたなら……そう、ファンがどれだけ沢山いても、広い広い会場中を埋め尽くしていても、あくまで「一対一」と言う「二人」なのだ。aikoは「君」の隣で歌うし、「君」もaikoの隣と言う傍にいる。まるで小宇宙のような、完成された、究極の理想郷ですらあるのかも知れない。

 ラストとなる大サビも先述したように一番の繰り返しではあるが、「いつだって君が好きだと小さく呟けば/傷跡も消えて行くの もう痛くない」の「傷跡」には二番サビに書かれたあの宿命の恐怖も弱さも内包されているのだろう。続く「雨が止み光射すあの瞬間に」の「雨」も同様だ。それらの弱さ、恐怖、緊張、全てが取っ払われ、百パーセントポジティブに全振りする、自信たっぷりのaikoが現れるその時は本当に、歌詞に書かれている通りあくまでも「瞬間」でしかない。ライブなんてものの数時間、長い人生から見ても本当にほんの一瞬だ。もしかしたらそれ以外はずうっと鬱々としていて、塞がっているaikoなのかも知れないし、多分aiko本人に聞いても「そうかもしれん」と答える気がする。
 そんなほんの数時間、本当に一瞬でしかない貴重な、何よりも尊い眩しい時間を、彼女は「ねぇ 隣で歌わせて」と願うのである。──冗談でなく、一人一人の隣で、笑うように泣くように、どこまでも願いを乗せて歌う。もう、こんなの泣いてしまうしかないじゃないか! ──そんな気持ちを抱きつつ、私達もまたその切なる想いに応える為、何度でも何度でも彼女の隣に行けるように、会場へと足を運ぶのだ。


■おわりに
「君の隣」は彼女のファンへの想いや愛が綴られている以上に、彼女の弱さ、辛さ、そして願いや祈りがかなり赤裸々に綴られている作品であった。振り返ってみれば結局私のaikoへの気持ちが迸った非常に私的な稿になってしまったように思う。「君の隣」がaiko本人からあまり離れていない曲であるなら、私もaikoファンを全開にして対応するのが筋(??)だと思うのでどうかご容赦いただきたい。
 この稿で何度も書いているようにライブは本当に一瞬でしかない時間だ。始まればすぐに終わってしまう。終わりの訪れないものなどないのだ。aikoはそれをわかっているし、第一、終わりがあるからこそまた始まることも百も承知だろう。
 そう。その通り。「終わったのならまた始めればいい」と思う時が来て、この尊い営みをずっとずっと続かせようと気持ちを切り替え、前に進んでいく。その気持ちで彼女は二十年以上歌い続け、今もなお始まりと終わりを繰り返し、未来に向けて歌い続けていくのだ。その為に彼女は今日も私達の隣で、すぐ傍で歌うのだろう。

 ところでこの尊い「君の隣」、これまで散々ライブのことを書いたわりにLLP16.5と「泡のような愛だった」を引っ提げたツアーのLLP17でしか(メドレー以外では)現状歌われていないのである。これは由々しき事態である。「大切に歌っていきたい」って言ってたのに! こんなに素晴らしい曲なのに! 「君の隣」愛好者の私としてはもっと歌って欲しいばかりである。偉い人! 読んでたらaikoに言ってください! 歌ってください!
 ……が、多分aiko本人も、これだけ赤裸々に綴っているのだから恥ずかしいのではないかと推測する。改まって歌うにしても気恥ずかしさが先行してしまうのだろう。でもまたライブで、ここぞと言う時に歌われることを楽しみにしながら、今回はここで筆を置くことにしよう。

(了)

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