■手紙と言うもの
 電話はリアルタイムで、基本的に一対一の生のコミュニケーションだが、手紙はどうだろうか。
 これも基本的には一対一のコミュニケーションだが、リアルタイムではないので、「生」では決してない。手紙と言うモノである以上、物理的、半永久的に存在するモノとなる。史料となる古代の書簡もそうだし、文豪が誰かと個人的に交わした書簡も価値を持って今に伝わっている。そこに込められた情報もまた、たとえ宛てた人がいなくなっても残り続ける。それはつまり、込められた「想い」が残り続けるのと同じことだ。
 双方向のコミュニケーションがリアルタイムで起き、自分も相手も主体となる電話と違い、手紙は書き手の想いが主体となる。言ってみれば書き手だけの空間であり、他者の干渉を受けないそこは、結界だとか閉鎖空間だとか呼んでも差し支えないだろう。そこにかかるエネルギーもまた然りで、そこに込められた想いもまた濃密である。aikoも指摘していることだ。別冊カドカワのライナーノーツでは「手紙って、相手のことだけを考えて、便箋に向かって集中して書くでしょ。だから自分で書く時も、もらったものを読む時もすごくパワーがいるんです。その瞬間の熱さとか思い、そういうものを歌詞として切り取っておきたい気持ちがあったんですよね」と述べている。
 手紙ではないが、密閉された想いを表現したフレーズのある曲がある。「彼女」収録の「恋ひ明かす」の二番の歌詞である。その想いの永遠性よりも「肥大する可能性」に着目されているのはあくまで想い単体に着目している為だろうが、関連するものとして一目しておく。
 さて話を戻す。濃密ならば、残り続けた時どうなるだろうか。誰かのもとに届けられ、その想いが行くべきところへ無事に行け、念願を成就出来たのならばいい。けれどもアスパラのように「渡せないまま」だったらどうだろう。
 と言って、一言で言ってしまうと「どうにもならない」のだが、「渡せずホコリをかぶった手紙」も「封の閉じれないラブレター」も、そんな「どうにもならない」言わば「報われない想い」が、行く先もわからないまま世界に永久に取り残されてしまう様そのものを表しており、聴く者をどこか虚しくさせる。
 もう一つ虚しくさせるものがある。リアルタイムでない、と言うことは、相手に届くまでに時間がかかる――タイムラグが生じる、と言うことである。手紙にその時の想いは綴られていても、書いた相手の想いは既に変わっているかも知れない。
 二番の「あなたがこの手紙を書いたのはもう過去」はまさにそのことを表している。尤も、オリスタで「(相手が書いた時)どんな気持ちでいたんだろう」と書き手がその想いを綴った時の気持ちをあれこれ考えることにも触れているので、「あたし」が「あなた」の気持ちをいろいろ考えては好き勝手に妄想しているイメージも浮かぶところなのだが、その当時の「あなた」の気持ちも含めて、手紙は既に過去のもの、なのだ。
 自分が書いたものでもそうだろう。渡せなかった手紙を偶然見つけてそれを開けば、恋がまだ息をしていた頃の想いは驚くほど鮮やかに書面に甦る。もう、その恋は死んでしまっていて、書いた自分からもその想いは消えてしまっていると言うのに。きらめく懐かしさと、沈みゆく虚しさが静かにしのぎあうことだろう。

■時間 ―容赦なく襲いくるもの―
 少しでも時間が経ってしまえば心変わりの可能性は生じる。誰も永遠の想いを約束することは出来ない。だから、より不安になる。それはaikoが一番よくわかっている。「音楽と人」二〇一四年七月号の特集に於いて「いつも心のどこかで終わりが来るって思ってるんですよね(中略)始まりがあったら終わりが来るって」「楽しくっても、いつかは終わるんやろうって思っちゃうから」とその考えの片鱗を見せている。
 最近――いや前からずっと思っていたが、これら「泡のような愛だった」関連のインタビューを受けて最近より濃く思うことは、aikoにはある種の強い諦観、および無常観が根底に存在しており、それ故に楽曲を紡いでいる、と言うことだ。それはおそらく彼女の父・繁伸氏の影響や、彼女の思春期の家庭事情が大きいと推測するが、「自転車」や「Aka」のフレーズ「明日あなたはあたしの事をどう思っていてくれるだろう」「あなたがあたしの事をどう思っているのか\それはそれは毎日不安です」に表されるように、「どんなものでも変わってしまう」と言う想いは、ある種彼女を縛る呪いのように、楽曲の中に深く深く影を落としている。
 けれども彼女は今も歌い続ける。そんな無常の理を理解しながら、何故歌う。それは、理にあらがってでも約束したい、願いたい想いが彼女の中にあるからだろう。Loveletterの大サビの歌詞に、その想いが表されている。私はそう思う。


■シアワセ二番との関連

一日一日時間が過ぎていってもこの文章彩る
愛しい言葉をどうかあなたが今も思ってくれていますように

 この大サビのフレーズを初めて聴いた時、既視感……否、曲だから既聴感か? を抱いた。それは二〇〇七年に発表された今でも歌い継がれる人気曲「シアワセ」の二番である。

あたしのこの言葉が唇をまたいでいった後
意味を持ったままあなたの胸に残ってます様に

 ほとんど書き換えと言ってもいいくらいの相似性がある。六年の時を経ても変わっていないと言うことでもある。つまり彼女の中にある普遍であり、彼女の恒久なる願いなのかもしれない。
 そしてこのフレーズに似た言葉を、私達aikoファンはライブ終盤によく耳にしている。aikoのライブであった出来事、楽しかった、面白かった気持ち――そんな一瞬を、自分達の生活の中でふと思い出してもらいたい。嫌なことがあったら思い出して笑って欲しい。また頑張ろうと思って欲しい。そんな風に、生かし続けて欲しい。今も、ちゃんと大切に持っていて欲しい。そんなaikoの言葉達である。汗びっしょりになりながら、化粧を崩しながら、まるで息も絶え絶えな中で、aikoはそんな想いを伝えてくる。
 もしかすると「シアワセ」がライブの最後に歌われるケースが多いのも、このフレーズがある故なのかもしれない。同時に、「Loveletter」はライブ生活の中で生まれた曲であることの意味がここで見えてくるだろう。

■ライブと言う手紙
 第一、ライブにおいて彼女は幾万とも言える私達からの手紙を受け取っている。何か。アンケート、である。私が毎回裏面までびっしり書くのは(LLRだとそうもいかないけど)それが確実にaikoに届くと思っているからで、私のような人はそれこそ何万人といる。
 aikoはその一人一人に返事を送ることは出来ないが、だからこそライブやその他のパフォーマンスでもってお返しを送る。ライブはLiveだけあって生であり、手紙と言う残るモノではないし、参加型かつリアルタイムであって、aikoだけの世界でもないが、けれど、「一人一人に歌う」ことを信条としている彼女なのだ。aikoが届ける、aikoと私だけの世界だ。それは「限りなくナマモノである手紙」と、どう違うと言うのだ。
 最後のフレーズの「ではさようなら」について、オリスタ二〇一三年七月二十二日号において「凛とした孤独感が出ていて、ハッとしますよね」と言うインタビュアの言葉に、aikoはこう述べている。「(前略)私の中でも距離感を調整しているんだと思う。(中略)好きな人でも恋人でも長年の友だちでも、変わらずに「親しき仲にも礼儀あり」でいたい(後略)」
 ここから伺えることは、aikoの「個を尊重する」姿勢である。きちんと個に向き合おうとするからこそ、一人一人に届けると言う、馬鹿げた、到底無茶で叶いっこない、途方もない想いと願いを抱けるのである。
「さようなら」と終わる歌詞に聴いた当時はなかなか面白いと驚いたものだが、この「さようなら」もやはり彼女の「いつかは終わってしまう」と言う想いが表されたものでもあるのかもしれない。「Loveletter」をライブと見るなら尚更だ。どうしたって、楽しい時間は終わってしまうものなのである。
 だけど、覚えていることは出来る。忘れないこと、覚えていること、想い続けること。その決意と熱き想いが、時間と言う大いなる無慈悲な神に対して私達が持てる、唯一無二の武器である。

■切なる願いと想い
 手紙という閉じた空間に、想いは生き続ける。だがそれを託された側は人間であるから、時を生きる存在であるから、いつしか想いは変容する。でも、だからこそ「変わらないで在り続けて欲しい」と祈ることが出来る。この曲は手紙を受け取り、書き、届ける主人公に、当時のaikoの想いが生々しく生きている。ライブ生活の中で生まれたこの曲はaikoのライブに向ける想いそのものでもあろう。やはりこの曲は今後も、何度も何度も何度も、ライブの中で歌われていくのだろう。
 そんなaikoの切なる願いと想いは、けれども、私達にとっても同じだろう。私だって、ミジンコ以下の小ささだけど、少しでも好きな人の、大切な人の――まあ、筆者である私からしたら、aikoの頭の片隅に残っていて欲しい、存在と想いを忘れないで欲しい、と思うのだ。
 それは到底叶わない願いかもしれない。だけど、祈ることも抱くことも、やめたりはしない。
 その点に於いてのみ、私とaikoは通じることが出来るのかもしれない。

(了)

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