水玉シャツはまだ眠る -aiko「水玉シャツ」考察-



■水玉シャツ概要 -しまわれた水玉シャツ-
 aikoは服好きとして有名である。類まれなるファッションセンスを持つおしゃれさんであることは多くのaikoファンが認めるところであるが、服を沢山持っているということはつまり着なくなった服も同じように大量に生まれ続けているはずであり、「水玉シャツ」のような曲が生まれることもまた必定だったと言えよう。
「水玉シャツ」は2002年4月24日に発売された「あなたと握手」の三曲目に収録されている、ピアノが少し重たく厳かな調子で始まるバラードである。結構古くからある曲であるがライブでの演奏回数はLLP19の時点では非常に少なく、フルでの演奏はLLP10の一回のみである(Tour De aiko調べ)「水玉シャツ」のモチーフである着なくなってしまった水玉シャツ同様、aikoの中では仕舞われっぱなしなのだろうかと考えると非常に勿体ないものである。一度aiko側でも会議してあまりやってない曲中心にライブのセットリストを組んでもらいたいとちょっと思ったりもする。
 aikoはこの曲についてaikobonライナーノーツでまずこう語っている。
「水玉シャツを持ってて、(略)そのシャツが衣替えの時にひょっこり出てきて、それで作った曲です」
 思い出すのは「クローゼット」で(曲の発表時系列からいくと秋そば収録のクローゼットが後になる)クローゼットで見つけた歌詞ノートに書かれた「忘れないで」から出来たのがクローゼットだが、水玉シャツもまた似たような経緯を背景としている。aikoは続いてこう語る。

「お洋服とかって捨てるのももったいないし、でも今はこの服は着る気がしないなぁ~って服あるじゃないですか。そういう服は、プラスチックケースに入れておくんやけど、忘れちゃうんですよ」
「で、いろいろ探ってる間に出てきたりとかすると、そのときのこととかいっぱい思い出すんですよね。ほんで、どんどん過去をたぐっていったりして、ひとりでしんみりしちゃったりとかして。で、書きましたね」

 aikoでなくても人生で誰もが経験する、思い出の一かけらであるだろう。服に限らず、ノートやメモ帳、鞄やアクセサリー、その時読んでいた小説や漫画……どんなものでも外部記憶のデバイスになりえてしまうのが人生というものだろう。それにしても、「クローゼット」にしろ「水玉シャツ」にしろ、aikoはそういったアイテム一つから瞬時に物語世界を展開し広げていくことにあまりにも長けている。ウィリアム・ブレイクの詩にある「一粒の砂に世界を見る。掌のうちに無限をつかみ一瞬に永遠を知る」をまさに実行出来る表現者であり、尊敬の念と嫉妬の狂いが私のうちに共存する。そのことについてはaikoも自覚しているようで、こう続く。

「私いっつもね、一個一個のキーワードだったり、物だったりで、ひとりで勝手にいろんなこと思い出して悲しくなる人なんです」
「でも、当時はその悲しいことから目をそむけてたけど、今振り返って、もう感情は変わってしまった今やからこそ、悲しいことを受け止めることが出来たり、あらためてその気持ちを吐き出すことも出来たりするようになりました」
「にしても、ほんとによくひとりでいろんなキーワードを見つけては過去を振り返ってひとりでせつなくなってることが多いん(笑)」

 キーワードから曲を生み出す、というとライブ恒例お題を集めて即興曲もこのaikoの才能が成せる業なのだなと今更ながらに思う。aikoでキーワードから出来た曲というと、枚挙に暇がないと思うがアンドロメダ(疲れ目エピソードから)に洗面所(ガラスの石鹸台が割れたことから)に赤いランプ(充電が切れるアラートランプから)それに赤い靴も一応挙げられるだろうか。全ての曲がそうとは限らないがとにかく多いのでそれを調べてみることもまた一興かも知れない。
 aikoはこのライナーノーツで「ひとりで勝手にいろんなこと思い出して悲しくなる」と語った。まあ普通、遠い思い出、もう帰ってはこない時間に無邪気に楽しくなったり喜んだりすることはないだろうからわかるのだけど、ここで「切ない」ではなく「悲しい」を選んだところが水玉シャツを紐解く鍵になるかも知れない。水玉シャツは、ただ切ないだけの曲では、きっとないのだろう。

■うたた寝と涙と悪い夢
 歌詞を読んでいくのだが、突然だが一番Aメロが私はすごく好きだ。もうAメロだけで(水玉シャツの世界とはまた別の)世界が展開されてかつ完結されている。絵画的というよりは俳句的といった方が近いだろうか。何気ない瞬間を言葉で捉え、かつ抒情的にこの歌詞の中に閉じ込めているaikoの手腕がすさまじい。
 俳句と書いたが思い出すのが泉鏡花「春昼」のキーとなっている小野小町の歌「うたゝ寝に恋しき人を見てしより 夢てふものは頼みそめにき」――うたた寝に好きな人の夢を見てしまってからというもの、夢と言うものを頼りにするようになってしまった――だ。aikoは現代の小野小町、間違いなく! と言いたいところだがさすがに脱線が過ぎるので読みに進もうと思う。
「目を閉じてうつらうつらしてる間に/いつもやって来るのはあなたの顔で」と、うたた寝や夢に沈む前の描写がなされている。そこに「いつもやって来る」のは想い人である――否、あった「あなた」の顔だ。「驚いて目を開いてみるとそこに/流るるはあたしの頬を伝う涙」夢を見たのか、それとも一瞬通り過ぎた、文脈を持たない残像に過ぎなかったのか。言語化されなかった想いは涙という物質にしかならず、それでも言葉以上に雄弁なものをリスナーに投げかける。
「流るる」はaikoには珍しく――というかこれ以外に用例があるのかあやしいが古語(流る)が用いられている。おそらく音の感じからこう書いたのだろうが、文語のニュアンスを交えることで曲の持つ切なさや哀愁に深みを持たせている。小町の歌で言うと先に挙げたものより「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」の方が一番Aメロに近いのかも知れない。私が完成されているAメロだと思ったのも、この歌を思い出したからかも知れない。では水玉シャツの「あたし」にとって「あなた」との関係はどのようなものだったのだろうか。
 Bメロでは、もう繋がることは無い、関係を切ったあなたに対しての心残りが綴られる。「言えなかった事は沢山あるわ 今はそれはそれは・・悔しくて」と。ここで「悲しい」と結ばれるのではなく「悔しい」なのだ。「もっとあれこれ言っておけばよかった」という惜別の悔しさなのか、「あの時どうしてもっと言い返さなかったのか」という恨みの混じる悔しさなのか。いずれにせよ「切ない」や「悲しい」といった感情には一元化出来ず、間をとって「悔しい」とした想いが、あなたに対してあるらしい。
 サビで、あなたとの最後の日について少し仄めかされる。「袖を通す事のない水玉シャツあれ以来あれ以来/最後に逢ったあの日は鮮明で 今のあたしには悪い夢の様」と。おそらく「最後に逢ったあの日」に着ていたのが表題にも挙げられている水玉シャツだ。「そのときのこととかいっぱい思い出す」とaikoが語っていたように、袖を通さないのは「その時」まさにその最後の日のことを思い出すからではないだろうか。そしてその「最後に逢ったあの日」は、どれくらい時間が経っているのかわからないが今もなお「鮮明」であり、あたしにとって「悪い夢の様」と評されてしまうくらいなのだ。まさしく悪夢のような事態が、あたしとあなたの間に起こってしまったのだろう。

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