■敬語の壁
 二番Aメロで注目すべきは敬語での文章になっているところだ。aiko文法において敬語は相手や対象から距離を置いたり壁を作ったりするものである(全てがそうとは限らないけれど)ということは過去何度かの事例に触れて学習してきたことであるが、これは即ち「あなた」に対してもあなたとの恋愛に対しても、「あたし」の方から距離を置き、壁を作っているということではないだろうか。
「あなたといた時は悲しい感情を/たまに忘れてしまうくらいだったのに」と述べる辺りは高評価である。悲しい感情を忘れるくらい好きだったり楽しいというのはなかなか得られるものではない。きっとあたしはあなたのことが本気で好きだったのだ。しかし「あなたを好きだと認めてしまう事が/嫌なくらい切ない恋になりました」と続き、「悪い夢の様」な別れを経験する。
「あなたを好きだと認めてしまう事が嫌」とは、単にツンデレやいじわるで言っているのだろうか? なるほどツンデレだなこいつ、とにやにやする段階が踏めるような状況でないことは一番で確かめた通りである。そりゃあ、ツンデレと書いてしまったが、つまりは癪に障るような気持ちで好きを認めているところも多少あるだろう。でも七、六割がた本気で「嫌」だと思っているように思えるのは楽曲がやや重ためなバラードだからだろうか。どうもこの二人の背景に、ギャグや冗談やコメディにはしきれない「重さ」を私は感じるのだ。aiko文法で壁や距離を敢えて作ることを表す「敬語」でわざわざ綴られているところも、これはきっと本気で嫌だと思っているところが多少あるのだろうとリスナーに伝える為ではないだろうか。
 二番Bメロで「どんなにあがいても昔と同じ 気持ちはもう2度と生まれて来ないでしょう」と続いていくが、この一文は「別れた時のあたし」と「現在のあたし」が二重に存在しているようなフレーズである。別れた時もそうだし、今この「水玉シャツ」の歌詞に気持ちを表している時のあたしも復縁の可能性を切っているし、その時と同じくらいの「好き」を相手に抱くことは無いと推測しているのである。
 一応は「どんなにあがいても」と前置きされているものの、歌詞全体に「あたしの向こう」の「あたし」のように壊れゆく関係を何とか食い止めようとする気持ちもない。(既に破局しているからということもあるが)壊れたものは壊れたまま、あたしはその恋を終わらせたのだ。水玉シャツに袖を通すことがないと言う意志表示は、恋は終わっている、もう戻る気もないという暗喩である。その鉄のような冷たさは、リスナーの持つ失恋への切なさや悲しさといった安易なイメージの介在を許さない。
 二番サビと一番サビのリフレインでこの「水玉シャツ」は終わる。「袖を通す事のない水玉シャツあれ以来あれ以来/最後についた傷跡ヒリヒリと 深く穴を掘る悪い虫の様」。ここで「最後についた傷跡」と言う新しい情報が出てきている。自然消滅のような別れではなく、何かしらの事件があり、それは(多分双方に)痛々しく傷跡を残している。となるとあたしの「昔と同じ気持ちにはならない」と言った意志や「好きだと認めてしまう事が嫌」と言う嫌悪も言いすぎではなくやはり本気での発言であろう。「深い穴を掘る悪い虫」と言う表現もまた独特だ。
 ここでも「穴を掘る」とそれこそ害虫的な表現をしているが、虫自体に(残念ながら)それほどいいイメージはなく、「悪い夢」と同じように「悪い」虫と表現してしまっているし、「深く穴を掘」っているのならついてしまった傷跡は今もなお深いし、何だったら悪化中なのだろう。そして先に指摘したようにこの曲のサビは二つとも「悪い」で締められる。歌詞だけ見れば後味は悪いのだがそこはaiko、しっとり哀愁たっぷりに歌い上げることで歌詞の持つ陰鬱なイメージからリスナーを逃がすことに成功している。歌詞のみを見た者だけがこの物語の持つ重さに対面することになるだろう。

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