■それは切ない恋だった
 悪い夢と歌ったり悪い虫と比喩したりと、あたしとあなたの最後に一体何があったのか。歌詞が短いのであくまで考察を走らせるよりない。
 aikoが「水玉シャツ」を書いたきっかけはシャツがひょっこり出てきたからであるが、この「水玉シャツ」はその時間軸通りにはいかず、大きく遡って仕舞われたばかりのことを歌っているのではないかと思う。一番と二番で時間が経過しているのだろうかと思っていたがそのようではなく、かといって「最後に逢ったあの日」からも時間がそんなに経過しているようには読めない。悪夢のようと評する別れから時間は経っていないと考えるとこの「水玉シャツ」に込められている気持ちは随分と生々しい。まだ綺麗な思い出に昇華されない頃であって、かといってどうすればいいか、あたし自身、どす黒い気持ちだったり、そうでなかったりする気持ちを持て余してるような状況だ。
 そもそも「あなたへの恋」は一体どのようなものだったのだろう。まず一つに「悲しい感情を忘れてしまうくらい」好きだった、一緒にいることが楽しかった。そして「好きだと認めてしまう事が嫌なくらい切ない恋」だった。「言えなかった事」が多くて悔しかった。けれども「昔と同じ気持ちはもう2度と生まれて来ない」――何かが積み重なって起こった別れなのか、それとも通り魔的に突然訪れた別れなのか。
 今一度、二番のAメロで歌われた「好きだと認めてしまう事が嫌なくらい切ない恋になりました」に注目してみたいのだが、「認めてしまう」と言う表現に込められているのは「驚嘆」なのではないだろうか。あれだけ嫌なことがあった、最後には傷付いた。嫌いな部分も勿論あるけれど、好きな想いは消せずにいる。「好き」一つあれば、「嫌い」の百個は消せるのだ。いや嫌いが何個あろうとも、「好き」はしぶとく残り続ける。良くも悪くもだ。
 aikoの歌詞をいろいろ研究してきて感じるのは、一つの恋愛が終わったところで全てがなくなるということはない、ということであり、aiko本人もよく言っていることだけれど、たとえ二人に何があっても、抱いた「好き」という気持ちもまたずっと残り続けるものではないのだろうか。水玉シャツのあたしも残り続けるそれを見つけて、そのこと――好きを放棄することが出来ないことに対してのある種の、悔しさとある種の嬉しさの滲む「敗北」、そのことへの驚きが表現されたのが「好きだと認めてしまう事が嫌」だったのかも知れない。
 そして、歌詞読みの段階ではすっ飛ばしてしまったがこの恋の評価としては「切ない恋」なのだ。終わり方故に切ないだったのかも知れないし、楽しい時間があったからこその切ないなのかも知れないし、手酷いまでに辛口の評価ではなかったところが、リスナーも、あたし自身をも救うことになる。

■美しい思い出になる前の
 もう一度aikoの言葉を引用しよう。aikobonで彼女はこんな風に語っていた。

「(前略)ひとりで勝手にいろんなこと思い出して悲しくなる人なんです。でも、当時はその悲しいことから目をそむけてたけど、今振り返って、もう感情は変わってしまった今やからこそ、悲しいことを受け止めることが出来たり、あらためてその気持ちを吐き出すことも出来たりするようになりました」

 もしかすると「水玉シャツ」は「悲しいことを受け止め」つつ、「その気持ちを吐き出す」ことを狙った曲だったのかも知れない。普通「悲しいことを受け止め」たのならそこから切ないなり、やっぱりどうあがいても悲しいなり、いろいろあるだろうが、もう少し綺麗に整えてから失恋を歌った切ない、寂しい、けれど清らかな何かを私たちに残していく曲にするものだろう。
 だが「水玉シャツ」は、しっとりした曲調で騙されるかも知れないがそうではない。ぶっちゃけると、私は、この歌詞を読む前この曲は綺麗なものというか、それなりに小綺麗に仕上がっている失恋曲――例を挙げると「恋人」や「洗面所」や「4月の雨」に連なるような曲だと思っていた。
 しかしそうではなかった。「その気持ちを吐き出した」とaikoが言うように、失恋からそう時間の経っていない、失恋の痛手が何かしらの形をはっきりと形成する前の「ありのまま」のものを表現している曲なのだと感じたのだ。むしろまだ「綺麗なものに昇華させてたまるものか」「美化なんてさせてやるものか」と言う泥臭さというか、リアルささえも私は感じたのである。
 そういう歌詞なら、曲はいっそ攻撃力最大にして「舌打ち」並みのものも作れたかも知れない。けれどそうではなく、暗めではあるがしっとりした重厚なバラードになっているのは、どこか「あたし」の中にもあった「後ろめたさ」や「後悔」も表しているのかも知れない。あたしについた傷跡は決して「あなた」だけが原因となって作られたものではないだろうし、眠りにつく間、いつも去来するのが「あなた」の顔なら、それだけ責任を感じているのかも知れない。水玉シャツの歌詞全体に漂う気まずさや複雑さは、相手にも自分にも非があるからこそ、どちらにも振り切れない迷いがあるからなのだろう。
 綺麗に昇華されてもいないし、水玉シャツに袖を通さない内は、あなたとの恋愛はあたしの中で整理がつけられないのだろう。けれど「目を背ける」時期からは脱出したようだ。それに水玉シャツを廃棄していないということは、思い出自体を捨てはしないということと同じだ。
 そしてこれらは全て「今」の話だ。これからどうなるかはわからない。水玉シャツに袖を通す日が来ないとは言えないし、「あなた」と「あたし」の物語もまた、時間さえ経てばまた一篇の違う物語を生み出すことになるかも知れない。ひょっとしたら笑い話に出来る未来だってあるかも知れないのだ。
 その時まで、水玉シャツは衣装箪笥の中で眠り続けるのだろう。もう一度手に取られた時、袖を通された時こそ本当の意味で「悪い夢」が覚める時なのだろう。



(了)

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