■切なさと言う本質
 私は先ほど「夏服」にアルバムの本質があると書き、また「September」も本質があるのではと書いた。多分この二曲は非常に近しい関係にあるのだと思う。夏の手前の「夏服」と秋の手前の「September」とタイトルセンスの近しさもある。波長が一番近い、と言えそうだ。ただ、それに加えて「夏服」にはもっと大きな意味があると考えている。それは夏だけに止まらない、「恋愛」の「影」として――あるいはさっきから何度も書いている「本質」だが、夏服に加えて「恋愛」と、そして「aiko」自身の「本質」も、「夏服」に満ちた切なさから同時に見出せる気がしているのだ。
 私は少し前に「夏服と言うアルバムの「影」のように」と書いたが、この曲で歌われる切なさや孤独は、そのまま“恋愛の影”と言ってもいい。そして、やはりこれも先述したが、aikoは恋愛の歌い手として、その影の部分を見過ごすことはなかった。忘れない為に、誰かに伝える為に――それはつまり、その影の部分にも恋愛なるものの本質、悲しくはあるが決して忘れてはいけないものがあると言いたい為に――そもそもaikoは「恋愛でもそういう孤独感みたいなものを表現したく」あったのだ――aikoは一気に歌詞と曲を仕上げてしまった。影である以上ずっと付きまとうそれは、私が(それこそ影のように)「付きまとう人には一生付きまとう」と著した「切なさ」を主体とするもので、aikoはその切なさを、「夏服」だけに止まらずあらゆる曲で表し、歌い続けている。それはいっそ、その切なさを歌うことに至上の歓びさえも感じ取っているかのように、だ。
 言ってしまえばその「切なさ」こそ、私にはaikoそのものの本質であるように思えてならない。「切なさ」に言及している全てのインタビューをさらうことは時間の関係で出来ないが、aikoはかつて「星のない世界/横顔」発売時のオリコンでこんな風に言っていた。

「(星のない世界について)嫌なことを想像した時に切なくなるということは、やっぱり好きなんだと認めないといけないな?っていうことを考えてたときに浮かんだ曲ですね」
「(その感情をどう言えばいいか)好きで切ないという感覚がいちばん大きいですね。例えば、「俺だって好きだと思ってるよ」って言われたとしても、その言葉が耳に入っていないときがあって。「そんなの嘘だ!」って思う瞬間がよくあるんです。そういう時は特に、好きだけど切ないって気持ちになりますね」
「(歌詞にある宝物について)好きになることはすごく楽しくて切ないんだという感情を教えてもらったんだと思いますね」

 この星のない世界のインタビューはそのほんの少しが見えるに過ぎないが、aikoは恋愛における切なさを否定的でなく、肯定的に捉えているところがある。aikoにとっては好きと切ないが両面であると言うか、このインタビュー内の「幸せって書いた紙の裏に書いてある不幸が常に透けて見える」の例えを用いるならばaikoは「好きの裏にある切なさが常に見えている」人であるのだろう。

■共鳴する切なさ
 過去どれだけaikoの作品における切なさを、その重要さを考えてきたことだろうか。恋愛における歓びや楽しさよりもむしろ、影となる切なさや孤独や苦しみや悩みを、aikoは積極的に表現しようとしている。
 aikoは一見すると確かに、元気で明るいイメージがある。世間はそう思ってるし、aikoをよく知る前の私だってそう言うイメージを持っていたし、むしろ今ですらそのイメージはある。それも「強く」ある。悩みなんてなさそうだし、希望に満ちあふれているし、幸福だし、考え方がとんでもなくリア充だ。私のような根暗で陰険で希望も未来もない生産性のないオタクとは違う。世界が違う。考え方が違う。全然違う。何もかも違う。aikoの輝かしさを目の当たりにする度、私はそう思う。
 けれども、かつて夏目漱石が「吾輩は猫である」で「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」と書いたように、aikoもそういう面ばかりではない。「September」のワンフレーズである「いつも元気だなんて決して思ったりしないでね」でようやく解放されたように、aikoの本当の姿は、aikoの本質は、もっともっと、寂しいものなのかも知れない。もっと暗くて、孤独で、寂しくて、悲しくて――そして、切なさで満ちている。ポジティブだと思うのと同じくらい確かに、そう思う。
 私は、明るく見えるaikoの、その裏にある切なさの代弁者である彼女に、十五年前のあの日、ものすごく惹かれたのかも知れない。aikoと同じような「一生付きまとう切なさ」を感じる人間として、「夏服」について調べようとライナーノーツを読んだ時激しくシンパシーを感じ「わかる!」と勢いづいてしまったのも、その証左である気がしてならない。この考察に手をつけた時から、ずっとずっとそう感じている。
 aikoとは全くの正反対で、ファッションセンス、好きな漫画、好きな食べ物、好きな音楽、好きな動物、そのほか一見して接点なんて見出せるはずのない、好きになるのがおかしいくらい……そういうところにずっとコンプレックスを抱えてきた私が、――たとえば、いつもライブ会場に行って、溢れかえるおしゃれなaiko女子達を見ていて「私にはaikoを好きになる資格なんてやっぱりないんじゃないか」と思うくらい――aikoにあるこの「切なさ」に、唯一自分と同じものを見出せた。そんな気がしたのだ。あらゆる楽曲にある「切なさ」こそが、私とaikoを結ばせる唯一の点であり、共鳴するところであるのだ。
 そうだ。十五年前から今までずっと、この点で私とaikoは繋がっていたのではないだろうか。「どうして私はaikoが好きなんだろうな」と十五年前から抱いていた疑問に、今、一つの答えが用意出来たような気がする。それだけでも、私は今回「夏服」を扱って本当によかったと思った。私とaikoの歴史が始まった日に手にした「夏服」に、私とaikoの真実すら隠されていた。なんだかもう、そんな気がしてならない。


■終わりに――愛は切なさを超えて
「夏服」が象徴するように、恋愛には必ず孤独と切なさが付きまとう。別に恋愛に限らない。人と人との関係には必ず生じてしまうものだ。それはひどく切ないし、悲しい。時には関係に終わりをもたらすし、人と人は完全に同一になれないことに嫌気がさしてしまうだろう。ズレが生じ続けても生きていくしかない。そこにすれ違いや思い違いは度々あって、それは深い孤独を生み出すだろう。
 そういうのをわかった上で、aikoはけれども繋がろうとする。誰かを想おうとする。彼女にはやっぱりそういうポジティブさというか、諦めなさ、ひたむきさがあると思うし、もっと言えばそれが人間として一番大事なものじゃないか、すなわち「愛」ではないかと思うのだ。そして切なさだけでなく、そのaikoの「愛」にも私はやはり惹かれるし、ライブの度に希望を貰っている。

 初めてaikoのライブを訪れて、今日で十五年になる。その愛はほぼ毎年更新されているが、あの最初の愛が灯り続けているからこそ、今もこうして生きているのかも知れない。文章を書き続けられるのかも知れない。冗談ではなく本当にそう思う。aikoに私は、何度も命を救われている。
 私は臆病だし弱虫なのでとてもaikoにライブのMCで話しかけたり、リプライを送ったりなんてことは出来ないけれど(まず、ずうずうしいって気持ちもある。あとMCっていうかaikoの語りを私はただ聞いてたいのね?)ネットの膨大な海の片隅でこうやって、aikoへの想いを表している。それこそ「夏服」のようにひっそり隠されているこれが、いつかaikoに届けばそれは奇跡だが、その「夏服」やその他の曲に息づく「切なさ」を、aikoとのみ繋いでいけたらいいなと思って、本稿を閉じることとする。個人的な気持ちで書き始めたので他の考察より真面目度が低くなり、気持ちばかりが走っているところが多々あるが、aikoに免じてそこはどうか許していただきたいところである。

(了)



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