■「ひとりでお帰り」から読む「ラジオ」
 さて今度は「ラジオ」の読みに移るとしよう。
 唐突だが「叱る」とはつまり「励まし」なのではないか、とちょっと考えてみる。「ラジオ」を読み解くのに「ひとりでお帰り」を使うのであるが、先に述べているように谷山はこの曲を「励ましソング」としているのであるが、最後のフレーズは一見・一聴すると「突き放して」いるように思えるので、励まされないとよく言われる、と言うことは、前の段落で既に書いた。では、その印象を受けて、この谷山の言う「ひとりでお帰り」の「励まし」は、むしろ「叱られている」と言い換えた方がいいのではないだろうか。
 と言うのも、aikoの「ラジオ」は「小さい頃はこの世界に生きてるのはあたしだけなのかも」と言う「不安」を主人公たる「あたし」が抱いた時、「違うよ」と「優しく言われた」のではなく「叱られた」とあるように、「叱る」のである。印象とすればそちらの方がむしろガツーン! と言われている感じではある。「君は一人じゃない」と言うよりも、「この世は君一人ではないのだ」と。

「ラジオ」には主格が二人いる。その二人、主人公兼語り手はどちらも「あたし」と言うaikoにはお馴染みの一人称である。大人になりおそらくはラジオDJをつとめている「あたし」と、真夜中に抜け出して一人夜道を歩きながらラジオを聴いている少女の頃の「あたし」である。aikoの曲にはよくある手法だが、大人の「あたし」が回想する形式のaiko曲である(例:三国駅・ホーム・れんげ畑 ってまんまaiko文学第二号の布陣であるが。通販受付中と巧妙に宣伝!)
 前の段落で述べたように、「ひとりでお帰り」の主人公と「ラジオ」のあたしはかなり似たような状況にいる。尤も細かい差異はある。「ひとりでお帰り」の主人公は家に帰りたくない、自分の世界に浸っていたくて外に出たままわざと帰宅せずにいるのに対し「ラジオ」のあたしはわざわざ家を抜け出して、どこか「わざと」、より孤独な状況に自分を落としているようにも思う。しかしこうして書いてみると、どちらも「自分の世界」に入りこみたい、或いは「世界」から「自分の世界」へ逃げ込みたく「家」ないしは保護的空間と言う場所を敢えて排除しているように見える。
 だがしかし、だ。「あたし」の家では深夜ラジオを聴くと何か迷惑がかかることがあるのかもしれないし、あるいはaikoの中高生の時期がそうだったように、この「あたし」も親戚の家に厄介になっていて、深夜ラジオを聴くことでやはり迷惑をかけることがあってはならないと考えていたのかもしれない……ので、彼女は別に「家にいたくない」と言う気持ちがあったわけでなく、単純に「ラジオを聴く為に」外に出ているのかもしれない。

 ともかくも彼女は(冷静に考えるとかなり危険なことをしているが)夜中に一人で出歩き、ラジオを聴くのである。どんな細かい設定がそこにあるのか、それこそaikoのみぞ知ることだが、「あたし」にはある種の「淋しさ」があることは否定出来ない。むしろそうでなければ「この世界で生きているのはあたしだけ」という思いは到底抱けないであろう。そこには計り知れない孤独がある。幾分、中高生が抱きやすい、自己陶酔に近い安っぽい孤独感も否定出来ないが。
 だがそんな「あたし」も大人になりラジオDJになる。aikoは歌手でなく先にラジオDJとして活躍していたことはaikoファンであるならば当然の知識である。

 声だけであなたが泣いていることも
 今じゃ わかるよ

「今」が少女である方の「あたし」のリリックに突如として挟まれてくるのだが、これは「ひとりでお帰り」で言うところの、「きみの今のその淋しさが 遠い街の見知らぬ人の 孤独な夜を照らす ささやかな灯に変わるだろう」に相応する。

 なぜ「今じゃわかる」ようになったか。それは、少女の頃に抱いていた淋しさがあったゆえであろう。

「ひとりでお帰り」のその部分の歌詞のように、淋しさを感じていた「あたし」は、今や、かつての「あたし」達の耳を和ませるDJという存在に成長した。つまり「遠い街の見知らぬ人の 孤独な夜を照らす ささやかな灯に変わ」ったのである。あの日の「あたし」の淋しさ――「この世界で生きているのはあたしだけ」と歌われたそれは、「ささやかな灯」に成長したのだ。


■おわりに
 今回読み解いた「ラジオ」は、しかし断片的なものに過ぎない。総合的に語ることは今回の趣旨から外れるので割愛させていただく(し、自分もそこまで分析し切れていない)
 谷山の「ひとりでお帰り」が「孤独でないことを知る為の孤独」「それを経験することをさとすもの」または「他者の孤独を和らげるための孤独を経験することをさとすもの」「孤独に負けない自分になることを励ます曲」であるとしよう。aikoの「ラジオ」はこれよりもっとシンプルで、「独りではない」と言うことを「叱ってくれる」曲である。つまりは「励ましてくれる」曲で、やや強引な導きではあるものの「ひとりでお帰り」と「ラジオ」が似ている曲だと言うことを私は今回の考察で言いたいのであった。
 そしてこれも興味深い共通点であるが、サウンドはどちらも至ってシンプルで静かな曲で、aikoに至ってはピアノ弾き語りであるし、谷山の「Memories」収録のライブverはこれもまたピアノ弾き語りである。
 aikoは歌手である前に、多くの「見知らぬ人」の声を――嬉しい声も、淋しい声も――受け止めるDJだったことを考えると、彼女の人の良さ、ファンへの愛情もむべなるかなと思わざるを得ない。
「ひとりじゃない」と言うことを言う為に「違うよ」と、敢えて「叱る」と言う表現を使ったところに、実際は深く暗い性格を持つのに反し、あの明るいライブパフォーマンスを見せてくれる「aikoらしさ」を、私はどうしても見出さずにはいられないのである。そして、暗さや残酷さのある曲や不思議な曲が有名である為、どうしても穿ったイメージで捉えられてしまいがちな谷山も、本当は誰よりも優しい曲を歌う人だし、とても面白い人だ。
 aikoと全く違う歌手だが、根底では同じものが流れているのかも知れない。だから、私はこの二者を特別に好きな歌手として大切に聴いているのかも知れない。

(了)

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