■今あるものが変わっても
 ラスサビへ繋がるCメロは「二人の形」の「あったかい夏の始まりそうなこの木の下で結ぼう」のように、春の次の季節である夏を──つまりは未来を見据えている。
「春が終わり夏が訪れ 桜の花びらが朽ち果てても/今日と変わらずあたしを愛して」にある「桜の花びら」は、一番の「降ってくる雨」と同様に「今」を表現している。桜の花びらが全て散り去って朽ち果てる、つまり「今」あるものが変わってしまっても、「今日と変わらずあたしを愛して」と祈る。だって今の幸せがそのままずっと続くわけがないのだ。憂鬱な今から視界を広げ、未来を見られるようになったあたしだから、春から夏への変化が示すように、時が流れることで物事が変わってしまうこともわかってしまったのだ。あたしとあなたの関係や愛の形も、時の流れの中で変わっていくことを意識せざるを得なくなってしまった。
 だから、祈るしかない。願うしかない。そしてそれを伝えるしかない。変わらずにあたしを愛してくれることを。ラストのサビである一番サビの繰り返しは、Cメロのそんな切なる願いを受けたことで一番の時よりも響きが違ってくるだろう。「右手をつないで 優しくつないでまっすぐ前を見て/どんな困難だってたいした事ナイって言えるように」のフレーズも、先の読めないわからない未来を迎える自分達だけど、どんなことになっても手を繋いで、まっすぐ前を見て歩いて、そして愛し合っていられる二人でいたい、二人でいよう、と言う意気込みが感じられる。

「ゆっくりゆっくり 時間を越えてまた違う/幸せなキスをするのがあなたであるように」と曲は締めくくられるが、「幸せなキス」と言う今の幸せを謳歌しつつ、「時間を越えて」──未来に、次の春に、そのまた次の春にこの幸せと二人の関係が続いていけるようにと言う願いが込められている。
 今を越えて未来に、また未来に、そのもっと先の未来に、何度でも同じ春を続けていきたい、繰り返していきたい。冒頭で少し述べた通り、春は終わりと始まりが交差し、重なる季節である。終わって始まって、また終わって始まって……とは、二番で歌われたような「巡り巡る季節」ともいえよう。
 終わりと始まりが同時に存在する。それは、何度だって繰り返していけることの象徴だ。営みを絶えず未来へと続けていけることが「春」──つまりこの曲のタイトルである「桜の時」だ。そんな希望が芽吹き花咲く季節にこの歌を贈ることは、私達が思っていた以上にすごいことなのかも知れない。二十年近く聴き継がれ愛される曲になるのも道理である。


■おわりに──虹を教えてくれたから
 幸せなキスをするのがあなたであるように。この曲はそう願って幕を下ろす。二人は、何度も同じ春を繰り返していけるのだろうか。
 けれど心配することはないと思う。この曲の最初に「雨上がりの虹を教えてくれた」時から、あなたは未来を見つめられる人だったのだから。あたしと過ごす中でもいくつもの虹を見つけるのだろう。何度も春を迎え、桜がめいっぱい咲き乱れる川辺を、右手を優しくつないで二人で歩いていく。そんな未来がリスナーの私達にも確かに見えている。

 別にキスをするわけではないけれど、幸せな二人でいられるように、と願うのは私達とaikoも同じような気がする。二十周年と言う節目を越えて今年は二十一周年。ますますaikoは歩み続けていく。私とaikoの歴史もそろそろ二十年近くになるし、新しくaikoに出逢うファンもいる。お母さんがaiko好き、友達がaiko好き、恋人がaiko好き、好きなタレントがaiko好き、たまたまラジオで聴いて、テレビで聴いて、たまたまライブに誘われて……そんな風に、aikoと沢山の人の人生が繋がっていく。そうだったからこそ、aikoは二十年以上歌い続けてこれたのかも知れない。
 そのaikoへの「好き」が一時の激しい火花で終わらないで、時を越えて永久に咲き続ける桜の大樹のようにいられたら。「桜の時」はそんな風に、aikoへの気持ちが表された私達の歌のようにも聴こえてくる。そういう意味でもつくづく、「桜の時」は時代を越えて愛される名曲なのだと感慨深く思ったところで、稿を終えることにしよう。

(了)

back

歌詞研究トップへモドル