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■解っていたはずだけど
 一番Aメロは全ての発端が描かれている。先述したように、ガラスのコップが割れた。割れてしまった。おそらくあたしの不注意か何かで割ってしまったんだろう。この出来事から転じて、歌詞にもあり、普遍的な命題でもある「形ある物は儚くいつかはなくなる事」をここでは描いているが、そのことをあたしは「解ってるんだ」と注意深く二度繰り返している。
 Bメロは、それまでどことなく小さく抑えていた声を「だけど」と高音でどこか頼りなげに上げて始まる。「だけどこうしてあなたとの/愛しき日々が記憶の奥のカケラになって/消えてゆくなんてね」であるが、Aメロにおける「解ってる」の真の意味は、形あるものが消えゆくさだめならば、あたしとあなたの日々もまたその理にあらがえない。そのことを理解していた。もっと言えば消えていく、霞んでいくのを覚悟していたということ、と読み取れる。けれども「だけど」なのだ。なんとなくこの「だけど」には感嘆(それも“嘆”きの意味合いが濃い)のニュアンスもあるように思うのだが、かつて「あたし」の大部分を占めていたであろう「愛しき日々」が今やどうだろうか。「記憶の奥のカケラ」となり果てて「消えてゆく」途中なのである。「消えてゆくなんてね」の「なんてね」には「彼との思い出が消えることなんてない」と強く自負していた自分に、希望を裏切られた結果出てしまった自嘲めいたものが見えるし、あるいは諦観を滲ませた、大げさでも純粋でもない驚きも見える。消えることも、霞むことも覚悟のうえだった。けれどもここまでか。こんなにあっさりと消えてしまえるものなのか。こんなのやっぱり、あんまりじゃあないか……押し潰されそうなそんな気持ち達が「だけど」には込められているようだ。
 忘れたわけではないけれど、愛しき日々は気付けばカケラとなって今や消えつつある。読解に入る前に、「コップが割れた」が自動詞による表現であるところに着目したが、「愛しき日々」もまた同様である。別にあたしが能動的に忘れたいと思ったわけでは、この文脈と歌詞全体からすると毛頭ないだろうし、むしろ出来る限り鮮明に覚えておきたいと思っていたに違いない。けれどもそんなあたしの切なる想いを嘲笑うかのように、愛しき日々の思い出達はガラスのコップと同じようにあたしの手からゆっくり微かに、しかし確実に離れようとしている。それもあたしに気付かせずにである。あたしが気付いた時には既に「記憶の奥のカケラ」となってしまっているのだ。
 時が流れる以上、それはつまりその人が生きている以上、思い出が霞んでいくのはそれこそ「形ある物は儚くいつかはなくなる事」と同じくらい確かな真理なのである。いかなる時に於いても物事の終わりについて考える姿勢を崩さないaikoだからこそ紡げることが、この洗面所の一番Aメロに既に惜しみなく注がれているのだ。
 そんな「あたし」は「太陽よこんなあたしを今すぐ隠して」とあるように、きっと自分自身を罪深く感じているのだと思う。時間が経つ以上何かを忘れたり記憶が不鮮明になったりするのはしょうがないことと既に述べたが、それ故に別にあたし自身が全て悪いわけではない。でも「こんなあたし」とどこか卑下するような書き方で、それも「隠して」と歌うあたしには罪深さ――と言うのが大袈裟過ぎるならば、恥ずかしさもあるし、ふがいなさ、面目なさもあるだろう。「なんてね」のところでちょっと書いたが、自分にすっかり失望してしまっている節も見えてくる。
(このフレーズについて少し書いたが、主題からやや脱線するので割愛しブログに掲載した

■消えてゆくもの 残るもの
 思い出はいつか消えていく。忘れることはなくても埃を被ってそのままになっていく。だがそれがふとしたことで甦れば、あたしはまた同じような感傷に見舞われるだろう。
 サビで歌われる「一つずつ思い出があなたとあたしのある日を不意に壊しても」はそんないつか訪れる未来を表していて、あたしだけじゃなくあなたもその対象に入っている。壊す、とは少し過激な表現だが、おそらくコップが「割れ」たことと繋げた表現だと思われる。恋愛や関係が終わっても二人の人生は残念ながら、と言うべきだろうか、その命果てるまで続いていく。思い出や記憶こそが人の生きた証であり、また生きているということならば、たとえ消えゆくものであったとしても、そして忘れたいことであっても、何かの弾みで思い出されるものとなり得る。それはその時の心の平穏を少し乱すものになるかも知れない。愛しく切なく思えるかも知れない。後悔を抱くものになるかも知れない。今はまだ、「壊す」としか言えないとしても、いずれにしろ、せめて少しは優しいものであることを祈りたい。
 しかしサビはそのフレーズだけでは終わらない。「ひとつだけ変わらないよ」と、あたしは思い出が消えることに対して何かのカードを切ろうとする。それは「あなたの傍にいたいと泣いたのはあたしだって事」である。これは過去の事実である。
 今更何だそんなこと、と思う人もいるかも知れないが、過去に起こった出来事は何があろうと変わらないのである。これは当たり前のことなのだが考えてみると結構すごいことではないだろうか。時間が絶えず流れ続けていき、万物のあらゆるものを消えゆくさだめに導くならば、それと同じくらい確かに、時間がもたらした億千万の事実もまた、見えはしないが世界に残り続けるのである。思い出ではなく事実を頼りに生きている人がどれだけいることだろう。頼りにして生きていくかどうかはまだわからないが、事実に希望を見出しているはずの「あたし」もそんな一人なのだと私は読みたい。

■今はまだその途中
 二番に入る。二番では一番よりも具体的にあなたに惹かれたところ、愛しき日々が書かれている。しかし歌詞でも触れられているように、あなたはもういない。「どんな傷も癒えるよな あなたの言葉」も聞こえない。見とれた「横顔」も見ることはない。特に前者は、そこまで言うかと言うか、わずかに残る思い出からも声がなくなってしまったかのようだ。
 Bメロは「愛しき日々」が描かれるが、泣かせるのは一番では愛しき日々の衰えていく様子を書いたのに対し、「愛しき日々は恥じらいながら大きくなって」と、日に日に増していくあなたとの、希望と照れと愛しさに満ちたかつての日々を書いているところである。なかなかに鬼畜の所行である。大きかったそれは、「微かに」、そうまだギリギリ残っていて、二人の人生が続いていくのと同様に世界に残り続ける「場所」――「二人歩いた坂道」に、引き留められたりもしてしまう。一番では消えていくなんて歌っていたが、愛しき日々はむしろまだまだ残り続けてあたしを切なさに苛ませるのではないだろうか。
 そう、まだこの時点では切なさや寂しさや悲しみの方が勝っているのだと思う。だからこそ、二番のサビがあるのだと思う。ここでは一番よりわかりやすく未来を歌っているのだが、「いつか思い出を 微笑みながら話せる日が来たとしたら」と歌う以上は、今はまだそんな状態には至れていない。「きっとその時は あなたの大きな両手をもう一度恋しく想うだろう」のだから、今はそう出来る余裕は多分全然ないのだ。「恋しい」よりまだまだ自分勝手な悲しい、寂しい、切ない、苦しい……そんな気持ちの方があたしを満たしているのだ。でもいつか――そうそれは、十分な時間が流れれば――いつか思い出として語れるようになる。無惨に消えていく、時が奪っていく思い出ではなく、いつでもそっと取り出せる思い出として、微笑みを交えながら。そう出来るようになれば、と思う。いつか、と歌える以上あたしも一応は前向きだし、そのいつかが来ればやはりその姿は前向きに映るのだと思う。
「別れも死もつらい。でもそれが最後かと思えない程度の恋なんて、女にはひまつぶしにもなんない」と私が敬愛する吉本ばななは書いていたが(「ムーンライト・シャドウ」より)つらくなって、切なくなって、悲しくなって当たり前なのだ。そうする時間が人間には必要なのだ。今は、不意に「ある日」が壊されても、かつて二人がいた場所に引き留められてもいいのだ。そうやってゆっくりゆっくり、あたしの心は元いた平穏に戻っていく。今はまだ、痛みを抱えて生きていく時なのだ。

■形あるものはなくなるけれど
 大サビは一番サビのリフレインとなっているが、「ひとつだけ変わらないよ」のところにビブラートを利かせている。「あなたの傍にいたいと泣いたのはあたしだって事」がより際立って聴こえてくるここにこそ、やはり洗面所の核たるものがあると思う。
 おおむね一番サビで書いたことと変わらないのだが、思い出も消えるし、人も場所もやがて消える。「形ある物は儚くいつかはなくなる」のだ。けれどなくなるものがある一方で残り続ける、というか、変わらないものがある。既に書いたことではあるが、過去としての事実は何があろうと変わることはない。歴史がそうであるように人によって見方や解釈は変わるだろうが、客観的な事実は変わらない。それが善きものであれ悪しきものであれ変わらないし、同時に変えることも出来ない。「あなたの傍にいたいと泣いた」とあたしが主張するのは、あたしがあなたのことを、あなたがあたしを愛すより深く愛していたと言う過去が、事実が(そして、もしかしたら現在でも)変わらないこととほとんど変わらない。
 変わらないということは「永遠」というものの一つの形である。永遠なんて信じられない、と言った旨のことを度々インタビューで明かすaikoだが、けれどもそうは言いつつ度々――たとえば相手の記憶に残り続けるなどの(赤いランプ稿参照)「永遠」を示唆するものが現れる。「洗面所」のこれもその類であると思う。忘れる忘れないではなくそんな次元を突き放した「事実」を持ち出しているのだ。思い出が消えても過去は事実として在り続ける。たとえ思い出が全部消えても、なくなっても、あなたの傍にいたいと泣いたくらい「あたしがあなたのことを強く想ったこと」は消えない。
 ただ、それがあたしを強くするかどうか、それはわからない。そこまで責任は持てない。けれど一つの「財産」にはなり得るだろうし、二番でいつかの未来を語る彼女を見ると、そして大サビで歌われるのを見ると、きっと強くするのだと思う。何事もそうだ。なくなるものもあるだろうが、同時になくならないものもある。それはその時は気付かないかも知れないが、振り返れば全てがきっと大切なものであると思う。
 洗面所の「あたし」の今は、まだまだ傷を抱えたままである。けれど無意識のうちに、彼女はもう大切なものに気付いている。微笑みながら話せる未来は、きっとそう遠くない。そう願う。歌っているaikoもまたどこか、そう願っていて欲しいと思ってしまうのである。

(了)

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