■ごまかした何か
二番に入る。二番Aメロはこれまでの切なくて寒々とした雰囲気とは少し異なっている。この歌詞の中で唯一と言ってもいい程の、二人きりの甘い時間の描写である。
「時を止めてあなたと愛し合って/わざとな我が儘/わかり易くて耳元が疼く」と、表現も歌詞同様わかりやすく、ああ、長電話に興じているんだなあとちょっと微笑ましくなる。「わざとな我が儘」は相手側の何かしらのアプローチだろうか。
そんな微笑ましくて愛しい場面だが、それでも一番のようなことが起こるのである。温度差に読んでいるこちらも一瞬スンと真顔になってしまうし、この落差を何の躊躇もなく、慈悲もなく淡々と描けてしまうのがaikoと言う作家であり、人間である。aikoの良い意味でドライなところ、シビアなところ、その本領発揮を感じる箇所だろう。好きと不安はやはり表裏一体で、カードを裏返すようにすぐ形勢逆転、ひっくり返ってしまうことがおわかりいただけるのではないかと思う。
続くBメロはそのことの比喩も入っていると感じる。「中途半端に開いた窓が/冷たい空気を部屋に入れる」だが、ここの「冷たい空気」が予感だったり、忍び寄って体を乗っ取る不安だったりと言う読みが出来る。「中途半端に開いた窓」と言うのも何かの象徴かも知れない。たとえば自分の自信の無さだったり、相手への信頼の薄さだったり、様々だ。ここに何を見出すかは人によるだろう。
二人は長電話だったのだろうなと思わせるのが「感覚のない痺れた唇を/上手くごまかした」と言うフレーズだ。窓を開けっぱなしにして室温を下げて毛布にくるまりながら電話しているのだろうなと想像するが、唇の感覚がなくなっているのだから思っていた以上である。
せめて窓を閉めろ……と言う突っ込みはともかく、「ごまかした」のは唇の痺れだけではない。いろいろとわだかまっている、言いたいことや聞きたいこと、話したいことも主人公はごまかしている。今二人で他愛もないいろんなことを話しているじゃないか。この時間に比べたら、そんなことは些細なことなんだと、そう思わせる。
せめて窓を閉めろ、と突っ込んだが、この「ごまかし」に隠されているものを読み解くと、先に少しだけ触れた「中途半端に開いた窓」もやはり重要なメタファーなのだろう。何かしらの「欠けたもの」や「なあなあにしていること」など、二人の関係でネックになっているものが存在しているのでは、と察したいところである。
■迷いながらの「わかってる」
二番サビ前半は主語がはっきりわからないため、少々読解に混乱をきたす。「またねと言ったのに逢えなくなって/ごめんと言うのにあなたが泣いて」であるが、「またね」「ごめん」の主語はあなたなのか、それとも主人公なのか。どちらかによって二通りに読めるだろう。主人公側ならそれほど問題はない。会えなくなったことに謝るが、あなたの方はいいよと笑うのではなく泣くのだ。主人公側には、その反応はちょっと重いかも知れない。
しかしこれがもし「あなた」の方なら、なんとなく怪しいと言うか、疑わしいものを感じてしまう。ごめん、と普通に言えばいいのに「泣いて」なのだ。何かしら、相手に後ろ暗いところがあってのことなのではないか……? と疑いたくなってしまわないだろうか。もしそうなら、ひょっとしたら「中途半端に開いた窓」ってこのことを表しているのか……? と勘繰りたくなる。
どちらが定かかわからないものの、再会を約束したのに会えなくなったり、あなたの方が泣いてしまったりと、ふと思い出すと心を切なくひっかく出来事が、かつてあったのは事実だ。それが引っかかる所為で一番と同様「言葉は夜空の道に迷う」のだ。
あなたからの向けられた形ある言葉は、続く歌詞にあるように「消えない痣になる」。あるいは思い出もだ。そしていつか齎される「さようなら」も、きっとそうなる。それは言えずに消えた、彷徨い続ける主人公側の言葉も同じだ。生まれずして体に残されたままの言葉は、それこそ歌詞の通り体の痣のように黒々として、いつまでも心の中にうずくまっていることだろう。
そんな痣をまた生み出すつもりか? やがてそれは自分自身を追い込んでいくぞ? それをわかっているのか? ──そんな自問自答があったのだろうか。サビの最後の「わかってるよ」はどこか自分に言い聞かせているように読める。電話は切れて一人のはずだから独り言でもあろう。
わかっているけれど、差し当たってどうすることも出来ない。容易にどうにかすることが出来ず、一人で計り知れない不安と向き合っていくのも、恋愛の一つの側面なのだろう。
■不安と祈りの瞬間を
大サビは一番サビの繰り返しとなる。MVではさざ波の音に乗せてアカペラで歌われる部分で、一層深く体に沁みこんでくる。曲を締めくくる「どこにいても 離れないでいてよ」は不安と向き合う中で絞り出された、自身の渾身の願いであり祈りなのだろう。
この姿は、あなたには見えていない。夜が明ければ、きっと何てことのない顔をしてまた日常に戻るし、あなたとの関係も続いていく。ただただ内面の想いの動きでしかなく、何が変わるわけでもないけれど、縋るように出された「離れないでいてよ」は、そう口にした自分の姿は心に生き続けるのだろう。それもまた不安と共にある、「好き」のもう一つの姿だ。純粋にあなたを求めるその姿に、私は愛おしいいじらしさを感じるのである。
さて、この作品はaikoも言うように瞬間を描いた作品に他ならない。別にこの先に何がどうなると言うわけではないし、そんなことはこの曲を鑑賞するにおいて全くどうでもいいことだ。写実的と先ほど書いたが、言わば写真のような作品であって、より抒情的な感性に寄るならばカブトムシのように絵画的な作品なのだと思う。ともかく空間芸術の趣がある。
文芸で言うと俳句に近いように感じるが、この曲にあるaikoの感性にあまりに平安歌人を感じ過ぎて「これ古典の教科書の、和歌のところで見た覚えがあるぞ」と幻覚を見てしまいがちなので、どちらかと言えば短歌──いや「和歌」なのだろうと個人的には言いたい。時代的には古今集よりも新古今集な気がするのだが、私は和歌にも中世の日本文学にも全く詳しくないので、どなたか詳しい方はその辺と絡めて一度文章を書いていただきたいところである。
■瞬間の芸術家
それにしても本当に「月が溶けた」と言う表現はあまりにも抒情的で、その表現力と着目点に何もかも全て投げ出して脱帽してしまう。以前私は自分の小説で、泣いてしまったことを「月が滲む」と表現したのだけど、私には「溶けた」までの表現は出来なかった、発想に至らなかった。至れなかった、と言うべきか。「夏の星座にぶら下がって 上から花火を見下ろして」と言う表現に感銘を受けたあの21年前の夏から、私はaikoの表現力と感性にずっとずっと憧れっぱなしだ。
そしてつくづく、aikoは「瞬間の芸術家」であると思わざるを得ない。ほとんどの人がスルーしてしまう恋愛の機微や想いが生まれ、動いていく瞬間をそれこそ瞬時に捉えて拡大し、楽曲と言う形にして残してしまう。「月が溶ける」はその代表例と言ってもいいだろう。他にもaikoの瞬間を縫い留めた名曲は多数存在する。そのことに着目して過去の曲を聴いていき、歌詞を深く読み込んでみるのも、ライブの開催出来ない特殊状況下における一つの楽しみ方だと思う。──余談であるが、談春師とのコラボライブのタイトルは「玉響」と言うものだったが、この古語は「ほんのしばらくの間」「瞬間」「かすかに」と言う意味だったので、まさに「瞬間」を描いた「月が溶ける」はぴったりの選曲だったと言えよう。
せっかくのデビュー22周年だが、2020年7月現在、日本どころか世界的にもまだまだ以前のようにライブが出来る状況ではなく、常にライブに明け暮れ生きてきたaikoの精神状態を心配してしまう今日この頃であるけれども、いつまでも涙で月を溶かしてばかりもいられまい。幸い、あじがとレディオのお陰で隔週でaikoの近況トークやハガキ職人達による面白いネタが楽しめる。とても楽しく幸せな30分にはいつも楽しませてもらっている。
遠いaikoと私達は、それこそ同じ月が浮かぶ空の下で同じ時間を生きているのだ。世界的な困難を乗り越え、いつかまたaikoに逢える日を月に祈り、また明日も強く生きていこう。そう奮起したところで、本稿を終えたいと思う。
(了)