■「さようなら」は選ばない――あたしが真に望むもの
 抑圧されることへの苦しさと、他己に加え自己をも嫌う憎しみと言う、aikoと言う桜の下に隠されていたネガティブな想い。けれどもその沼のような闇に堕ちても必ず浮上してみせんと言う、これもまたaikoと言う桜の根幹にあるポジティブさ、そして相手への反撃を試みた反骨精神。「悪口」を語るにはこれだけでも十分であるが、しかし果たして本当にそれだけなのだろうか。それだけを語るべきだろうか。
 いや違う。「悪口」は自分だけの曲ではない。aikoと言う美しい桜の下を暴きたかった故に、大事なことをどこか「敢えて」忘れていた。この曲はそもそもが友情――友達の曲だ。もう一つの肝はそこにある。
 一番サビの時に書いた通り、「あたし」は問題となっている友達と「ゴーゴーマシン」や「こんぺいとう」のように「さようなら」とはしていない。「悪口」の後に結局は「さようなら」の未来を迎えてしまうかもわからないが、かと言って曲全体が暗いネガティブな雰囲気のわりには、近い未来その方向へ舵が取られるようには何故か思わないのだ。しかもその印象は最初に聴いた時からそうだったし、十五年は経過している今でも変わらない。aikoの瞬間切り取り真空保存芸がいかに恐ろしく冴えており、またブレていないと言うことでもあるが、今はその技術の神業ぶりを褒めたたえたいわけではない。
 曲の中で確かにあたしは相手への不満や怒り、あるいは戸惑いに近いものを表している。自分の善なる話、喜ばしいエピソードを聞いてくれず、不満や愚痴、悪口ばかりを聞きたがることへの憤りを抱いていることは歌詞にある通り確かだ。
 けれど、どこか理解者になって欲しい本心も抱いているのではないだろうか。サビの最後に現れる「たまにきつく叱ってみせて」こそが、この曲とあたしの総意であると私は考える。相手のことに本当に嫌気が指していて、関係を断ち切りたいと思うならこんなことは言わないし、言えないはずだ。こうした相反する気持ちを抱いて、さぞやもどかしいことだろう。

■共に歩む理解者としての「あなた」へ
 ところで「叱って」――「叱る」と言う動詞が登場する曲と言うと、私は「ラジオ」を思い出す。それも「悪口」と同じようにサビの最後に登場する。
 小さな悩みでも死にたいくらい辛かった子供の頃。この世界に生きているのは自分一人だけかも知れない。そんな究極の孤独の果てに不安になった時、「違うよ」とノイズ混じりに叱ってくれたのは「ラジオ」の存在だった――と言うのが「ラジオ」の概要であるが、どうだろうか。改めて読んでみるとまるで「悪口」をそのまま裏返したかのようではないだろうか。
「ラジオ」では、知り合いではない、ましてや友達でもない、遠いどこかにいる誰か、それも他の不特定多数の大勢と共有してるラジオのDJ(と、そのラジオを聴いている無数のリスナー(つまり共有している不特定多数の大勢のこと))があたしに「違うよ」と叱ってくれる、本当の意味での理解者だった。「悪口」のあたしが求めているものも、きっとそんな理解者である。
 そしてそれは誰でもない、「あなた」と言う友達その人であって欲しいのだ。口先でだけ「何でも解るのよ」と白々しく言ってみせたその友達に敢えて「嘘つき」と吐き捨てるのも、実際に何も解ってないことへの怒りもあるが、理解者を望むあたしの、真に迫った本心を侮辱されたかのようだったからだ――と読むのは強引過ぎる気がしないでもないが、無理があり過ぎるとも言えないと思うのだが、どうだろうか。
 その上で考えると、「たまにきつく叱ってみせて」は先述したような「見捨てない」と言う気持ちもあるのだろうが、同時に相手に離れていかないで欲しい、すがりつくような情愛が感じられてくる。とは言えそこまで湿っぽく、みじめでもない。どちらかと言えば対等な立場だ。前半の「だからもう少し笑ってないで」の「だから」に注目してみれば、あたしが「前に進む」ことと「上を向く」ことを理由に「笑ってないで」「叱って」くれることを望んでいるらしい。それはつまり、相手にもそうあって欲しいのではないか? あたしはあなたと共に、前に進み上を向きたいのだ。

■桜の木の下にあるもの
 一方では相手に憤り、一方では相手を求める。この相反する要素は、自分のネガティブな要素をわざと掘り起こしていく「あなた」が「嫌い」と一番で歌っておきながら、相手の悪さを執拗に責め、意固地にこだわり続ける「あたし」自身が「嫌い」と二番で歌っていることの現れでもあるように見える。相反した要素は曲の肝を据えているサビにもある。サビで描かれている弱っていく動物と立ち直っていくあたしの対比、あれも鮮やかなまでに相反する要素ではないか。
「悪口」にあるのは、相手に異を唱え、反撃する攻撃性だけではない。相手とわかり合おうとし、歩み寄り、互いにとって今まで以上に近しい者になろうとする協調性と情愛も伺える。やはり、分裂しながらも少しは善に――善き方向に傾く気持ち、それこそがaikoと言う桜の木の下に真に隠されていたものではないだろうか。
 弱くてネガティブかも知れない。でも本当は強く、前向きで、何より愛おしい。「桜の木の下」で魅了された私を始めとする多くのaikoファンは、今も意識的に、あるいは無意識の内にaikoと言う桜にその善なるものを感じ取っている。ほとんど確信に近い気持ちで私はそう思うのだ。

■終わりに
「悪口」はたまたま友情の曲であったが、同性同士でも異性同士でも関係なく言える普遍的なテーマであり、デビューから十八年を迎えた今でも、aikoはそのテーマを度々取り上げていると感じる。
 今回取り上げた「悪口」に限らず、「桜の木の下」にはそのタイトル通り、今のaikoにも通じている魅力がそこかしこに埋められている。最新アルバム「May Dream」を引っ提げて全国ツアー中ではあるが、参加するライブの日までに一度「桜の木の下」を聴いてaikoと言う桜の木の下に想いを馳せてみるのもまた一興だろう。もしかしたら、まだまだ私達の知らない、とんでもない美しい秘密を見つけられるかも知れないのだから。
「桜の木の下」で初めてaikoの暗部に触れてはや十数年。私はまだまだ、彼女と言う桜の木と、その下にあるものに、現在進行形で、飽きもせずに夢中である。

(了)

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