■悪口を読む
 そのような厄介な友人関係を抱えたaikoは、その憂鬱――インタビューになぞらえて言うなら、「自分に収容しきれなかったもの」をどう歌詞の上に表したのだろうか。
 悪口は楽曲もそうだが歌詞も非常にシンプルな構成で、一番と二番の歌詞だけになっている。まずは一番Aメロから読んでいきたい。「押し込めた気持ちを我慢していた気持ちを/吐き出すかの様にあたし突然泣き出した」と始まりから不穏である。「小さなこの部屋は息が続かなくなるの/後ろ振り返る後ずさり ねぇ どうしよう…」とそんな自分と今の状況に困惑しきってもいる。
 aikobonで語られたことを踏まえて読むと、迷惑な友情に困り果てた「あたし」がいきなり限界を超えて破裂したところからこの曲はスタートしている。あえて触れないでいようとする心の暗い部分を、迷惑な追及がひたすらにつついた結果、「あたし」が持つ善なる気持ち――嬉しい、楽しい、大好きと言った気持ちが失せて、というよりは潰されてしまった。そして触れずにいた心の暗部、ネガティブな側面がその反動でわきあがって、それこそ文字通り嗚咽として「吐き出」してしまっている。「息が続かなくなるの」は比喩でも何でもなく事実で、しかし限界を超えて追い詰められた「あたし」には後ずさりしても、後ろを振り返っても誰もいない。「ねぇ どうしよう…」と困り果てても癒してくれる回答は降ってもこない。
 そう、誰もいない。私はこの読解を始めるまでてっきり相手は電話口にでも出ているのかと思っていたが、「あたし」は部屋に一人でそれ以外には電話さえ繋がっていない、全く誰もいないと読む方が適切かも知れない。最新アルバム「May Dream」の「かけらの心」は一人暮らしを始めた頃のaiko自身をモチーフにしているが、この悪口の「小さなこの部屋」も同様で、自分以外誰もいない部屋と言うどうしようもない孤独が、より効果的に曲の世界観を強めている。誰もいないからこその「どうしよう」が何とも頼りなく、そして哀れに聞こえてくる。
 一番Bメロはaikobonで言っていたことそのまま歌詞にしたかのようである。「あたしの泣き言好き?/うれしい話気に入らない?/悪口はもっと好きみたいね/そんなあなたをあたしは嫌い」この一連だけで相手との立派な離縁状とならないだろうか。「うれしい話」が「気に入らない」のは、何だか自分のあらゆることを全否定されているような気がして、読んでるだけでもひどく辛い。「嫌い」と言う答えはもっともである。
 サビの「前歯を無くした兎は耳も背中もうなだれて/青く茂る広い草原を走る力もなく死んでゆく」は我慢の限界を超えて途方に暮れるより他ないあたし自身をまさに指している。「死んでゆく」の表現は結構ストレートかつ残酷で一瞬構えてしまうが、それくらいあたしが負った精神的疲弊は強かったのだろう。続いての「しっぽを無くしたあたし」もまた自信や自尊心を相手に奪われた状態を表しているが、そんなあたしは「前に進む為にここにいる」と歌われるのである。サビのメイン、いや「悪口」と言う曲の一番の肝はここにあると思う。確かにスタートからして鬱々として出口も見当たらない絶望的な状況にあるのだが、あくまであたしは前に進んでいきたいのだ。檻に閉ざされた中、自分にまとわりつく泥だけを見るのではなく、未来と言う星を見据えている。
 その為に相手に何を望んでいるかは、続くフレーズが表している。「だからもう少し笑ってないでたまにきつく叱ってみせて」と。ここの「だから」はやや怒っているニュアンスも感じられる。怒るだけの正当な理由はある。「笑ってないで」――笑っているあなたは、あたしの話を聞いてはいない。侮辱されるも同義のこと、苛立ちを呼び起こすのにそれ以上のものはないだろう。話を聞いて、甘い励ましだけではなく時には厳しいことも言ってくれる存在が本当の友達であり、本当の意味で理解者なのだ。あたしは極限まで追い詰められながらも、「あなた」に理解者たることを望んでいる。少なくとも見限ろうとはしていないようだ。例えば「ゴーゴーマシン」のように「さようなら」と去っていくことは、まだこの「悪口」の世界では選ばれていない。

■自己嫌悪への転移
 理解者。そのことを念頭に置きながら二番に入ると、まさにそのことを思わせるフレーズに出くわす。まず「毎日きゅうくつで困ってしまったら/優しく手を差し伸べてくれる友達」だが、きゅうくつなのはこの曲の中では描かれていないあたしの生活のことも指しているだろうし、一番のように自分の気持ちを押し殺されていることも指しているだろう。そこに再び友達の姿が現れる。
 一番のあなたと二番の友達はイコールで結び難いが(私は別の存在として読んでいた)aikobonでも同一のように書かれているし、ここでも便宜上ほぼ同一の存在として読みたい。その友達は言う。「私はあなたのこと、何でも解るのよ。だからいつでも言ってね。」――そう。彼女は自称「理解者」なのだ。しかしそのフレーズに切り返すあたしの言葉はこうである。「なんて嘘つき」と。これほどまでに殺傷力とインパクトのあるaikoの打ち返しを私はまだこの曲以外に耳にしていない。先述したようにまだaiko経験値が低かった頃のことだから余計にそう思ってしまうし、今でも聴くたび射抜かれる。
 続くBメロは一番とは少し異なっている。その嘘つきの友達とする「夜の長電話」はあたし自身を縛りつけるもの――歌詞では「つなぎとめるもの」とあるが実質あたしが束縛されていると言っているようなものだ。そんなあなたをあたしは嫌い、と、一番ではそう返していた。けれども二番は違う。「でもそんな事ばっか言ってる/意固地な自分が嫌い」
 相手へと向けていた嫌悪感がどういうわけか自分自身に返ってきてしまったのである。長電話にしろ束縛にしろ許容出来ない、スルーし切れないあたしは「意固地」とあるように、どこかネチネチと言っていた――いや言っていなくても「思っていた」で十分だ。そんな節があったのだろう。そうやってしつこくこだわり続けることがもう自分でも耐えられなくなった。逃げ続け、苦悶し続け、絶望し続ける自分に嫌気がさすことは誰だって経験があるだろう。このBメロの「嫌い」は、自己嫌悪の極地にある。
 他己を嫌い、自己も嫌う「あたし」。まさにサビの歌詞にあるように「両ひげ切られた親猫 右も左も見えなくて/愛する元へと行けずにひとり泣くこともなく立ちすくむ」の通りである。猫は髭を切られるとそのしなやかな身体能力を著しく失うことはよく知られた話だ。実際どうなるのかは、猫好きの私には想像するだに惨くて知る由もないが、それこそ歌詞のように「右も左も見え」ず、「立ちすくむ」以外になくなるのだろう。一番の「死んでいく」よりはマシな状況かと訊かれれば、字面の差はともかく、さてどうだろうとも思う。中途半端で進むに進めない、沼地にはまったような状況が一番苦しく思えるもので、二番サビ前半の閉塞感は並大抵のものではない。
 けれども一番サビと同じように、そんな状況を――切り抜けるまでは行かなくとも、「あたし」は嘆くだけで終わらなかった。「猫背を治したあたしは上を向く為にここにいる」のだ。「上を向く」――たとえ今は沈んでいても、絶望し沈みきって自滅することを彼女は選ばない。前半の「猫」と対応している「猫背」――萎縮し、怯えて本心を出せない己を表すそれだって治しているのだ。
 上を向き前も向く彼女がもう一つ望むのは、やはり友達である「あなた」のあり方だ。「だからもう少し笑ってないでたまにきつく叱ってみせて」と一番と同じフレーズがリフレインされる。友達自らの「解る」という言葉が二番の歌詞に出ていることを思えば、一番よりも「理解者になって欲しい」気持ちがより一層ここには込められているのだろう。

■反撃としての「悪口」
 先述した通り、「悪口」は男女間の恋愛ではなく友情、それも一歩間違えれば崩壊しかねない友情を主題にした曲である。友達との曲ではあるが、曲の持つもの悲しさ、ほの暗さを考えるとかえって孤独が深まっていくあたしの曲とも言える。
 暗い印象の曲ではあるが、かといって「ひとりよがり」並みに鬱々としてはおらず、むしろ前向きな決意は固い。二つのサビに見える「前に進む」ことと「上を向く」ことは、先だって肝と書いたが、まさにその文字通りにこの曲を支える二つの心臓である。
「あたし」はたとえ自信や自尊心を奪われ、自己嫌悪と孤独の果てに自分が追いやられる羽目になっても、そこで何かを見つけて帰ってくるのだ。孤独であることも、悩むことも、悪いことばかりだとは決して限らない。その点が「悪口」と言う曲の救いである。それは問題となっている友達との関係にも言えるのかも知れない。
 ここで「悪口」と言うタイトルに少し着目してみたい。aikoは「仲良しとは違うのではないか」と言う疑問からこの曲を書いたと言っているが、相手が聞きたがる悪口を意図してタイトルをつけたのではなく、少し苦しいが「相手への反論」あるいは「相手への反撃」を意図しての「悪口」と言うネーミングなのだろうか、と感じた。aikobonで話されている内容をもとに考えれば、aikoはその友達に異議を唱えているのだから、これはaiko自身の明確な反撃と言わずして何と言うのだろう。
「恋愛ジャンキー」のような激しいロックであればまだわかるが、アコースティックで大人しい雰囲気の曲でその意味を潜ませると、それはよりざっくりと、深く深く私達の心に、手応えのある傷を残していくように思えてならない。それこそ、初めて聴いた時に衝撃と衝動を覚えた私のように。

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