■「二時頃」はなぜ問題か
 以上、確認したように「二時頃」以外にも秩序を乱す第三者が存在するaiko曲は他にもある。しかしそれでもなお「二時頃」が特別――つまり、問題のある曲であるということを私は主張したい。
 確かに「二人」も「二時頃」も第三者が現れる曲中でのタイミングはほぼ同じである。しかし曲の設定はそれぞれ違う。もっと言うならば聴いているリスナーの心構えも違っている。「二人」は「夢中になる前にわかってよかった」と言い訳をしながらも恋の始まりを歌っているのに対し、「二時頃」は既に「あたし」が「あなた」へ恋をしていることが冒頭の「恋をすると声を聴くだけで幸せなのね」ではっきり明示されている。さらに、aikobonを参照しないでもない限り、この曲の「あたし」と「あなた」が恋人同士(既につき合っている状態)であるかのようにも聴こえるし、実際私はそうだと思ってこの十数年間聴いていた。歌詞を読めば「付き合っているとは言っていない」状態なのでそれは思い込みや勘違いでしかないわけだが、それでも自然に聴く限りではそういう風に誤読してしまうことは否定出来ないだろうし、そういう認識を持っているが為に「Tinyな女の子」が「相合傘」「アスパラ」「二人」の「あの子」以上に出し抜けに、また、脅威に感じるのである。また、「二人」の「あなた」はまだ「あの子」側に完全に属しているようには聞こえない――言ってみれば「あなた」の片想いのように読めるのに対し、「二時頃」の「あなた」は完全に「Tinyな女の子」側に属している。ありていに言ってしまえば「あたし」と電話をするのは、「あなた」のちょっとした浮気の一つのような印象を受けるのだ。



 更に問題なのは状況だ。時刻は「真夜中」で、「受話器の隣」で「深い寝息を立ててる」なんて、生々しいにも程があるではないか。いい大人じゃなくても「あなた」と「Tinyな女の子」がどういう関係にあるか、十分察してしまうじゃないか。正直、aikoの曲でこれほど露骨に男女の閨をにおわせる表現を私は「二時頃」以外に知らない。また、「バニラのにおい」なんて他の「あの子」以上に具体的な形容要素があるのもかえっていやらしくはないだろうか。この表現の点から言っても、「二時頃」はaiko曲の中でもひときわ問題があるように感じるのである。

■略奪された恋
 表現も問題があるのだが、しかしやはり、「二時頃」につきまとう「略奪」のイメージが激しくリスナーを揺さぶるのだと思う。「Tinyな女の子」に「あなた」を奪われる。そういうイメージが。
 とは言え略奪と言う言い方は必ずしも正しくはないかも知れない。「FUN」での「だって付き合いたいじゃないですか」と言うaikoの言葉を考えると、むしろ奪おうとしていたのは「あたし」の方であるのが正しい。「Tinyな女の子」はそれこそ歌詞中の「何も知らず」ではないが、あくまで「あたし」には無干渉で「あなた」側にずっと属していたのだし。
 しかし歌詞の構成上、読者からすれば予期しない第三者、秩序を乱す第三者となったのは「Tinyな女の子」の方である。問題のCメロまでは、他のaiko曲と同様、「あたし」と「あなた」、二人っきりの狭い世界でしかなかった。その切ない「あたし」の心情にすっかり浸りきっていると思ったらコレである。読解のパートで後述するが、一応歌詞の中に後半への伏線はちゃんと張られているから人によってはそこまで出し抜けとは言えないのだが、その狭い世界を壊してしまったことで生まれる絶望にも近い興ざめは、たとえるならお気に入りカップルのラブラブな同人誌かと思って萌えていたら、モブNTRだった同人誌を無理矢理読まされたようなものである。こんなの人によっては完全に地雷であるし私には地雷中の地雷だ。(NTRについては各自ググること。あまり好ましいとは言えないものなので、人によっては閲覧注意)
 個人的に、「二時頃」から受け取られる感情の一つに「喪失感」があると思うのだが、それはこの部分に起因する。その後に続く「あたし」の想いはその喪失感にそっと寄り添う感じではないだろうか。失恋したばかりのリスナーがこれを聴いたとする。下手に慰められたり、元気づけられたりする歌詞を贈られるよりも、一人で物想いに沈んだり、一人で寂しくなったり悲しくなったりする時間が、傷ついた後には特に必要なのではないかと私は思う。そういう時に「二時頃」の後半の歌詞はちょうどいいのではないだろうか。「二時頃」の人気の一つには、もしかしたらそういう面もあるかも知れないと考察をしていて思った。
 ところで突然話題がガラッと変わるようで恐縮なのだが、私は好きな芸能人の交際報道が伝えられると決まってこの「二時頃」を聴く。なかなかどうして、この芸能人の恋愛報道と言うやつほど一般人にやるせなさを感じさせるものはないんじゃないかと私は思う。別に付き合ってよーが結婚しよーが私達の生活に支障があるでも何もないじゃないか。天気予報の方がずっと有用な報道であり、心底マジでどうでもいいニュースである。そうだ、ニュースにするほどでもない。単純に興味を満たすだけー、というか、人のプライベートを食い物にする悪しきマスメディアと悪しき大衆の欲望! といっそ嫌悪するくらいだが、でも身近なもので、「どうすることもできない喪失」を与えるのに、これほどまで手手頃な話題もない。それが特に大好きな俳優だとか女優だったりすると素直に祝福出来ない気持ちもあるだろう。今年は堀北真希に福山雅治と特に驚きの結婚報道が多かったが、祝う気持ちもありながら、そこはかとなく寂しい気持ち、虚しい気持ちになったりもしなかっただろうか? 「私の知らない(知り得ない)領域」が結婚や交際報道によって可視化されることで寂しさや孤独を刺激されるのだ。これは私に限った話かも知れないが、自分の知り合いや身内が結婚なり付き合ったりということを知ってもいつも寂しくなるし、いつも置いていかれたような、どこか存在が遠くに感じられてしまうのである。
 出し抜けにこんな話題を持ち出したのは、芸能人の結婚・交際報道に接する私達と「二時頃」の設定はわりと近いのではないかと思ったからだ。「誰か付き合っている人が100%いるだろうし、いないの? とも訊きたいが、私達はあえて知らない振りをして愛を求める」様は、aikoが提示した設定とひどく似ている。ところで私が最近「二時頃」を喪失感を以て聴いたのは去年の九月のこと、某国民的女優が結婚したと言うニュースを知った時である。その日は一日中ボケーッとしてしまって何も手につかず、ひたすら「二時頃」を聴いていたのだ。その人は結婚のイメージからは少し遠い人だった、と言うか、神聖にして犯すベカラズといった印象のある人だったので結婚報道には一部の芸能人も含め多くの大衆が驚きの声を上げていたのだが、そんな騒然とした中で呆然とした喪失感を抱いていた私は「二時頃」の世界に一人、埋没したのである。さっき失恋したリスナーには……と書いたが、まさしく失恋したにも近かった。もう確実に誰かのものになってしまった、誰かと共にいる道にあるあの人は、なんと遠いのだろうか。どうしようも出来ない無力感に打ちのめされながら、aikoの切ない歌声をバックに寂しさを一つずつ癒していたのはまだ記憶に新しい。
 多分私は――いや多分どころではない、絶対私は、aikoが結婚した時も「二時頃」を聴いて一人物思いに沈むであろう。もう四十歳、いつ何が起こってもおかしくない年頃である。ほとんどaikoに恋をしている私にとっては、そのXデーが来るのが、aikoを祝福出来るので待ち遠しいような、でもでも絶っ対に来てほしくないような……複雑な気持ちである。いっそ泉鏡花みたく、伴侶と言える人はいても晩年になってやっと籍を入れるくらいでもいいので、もうちょっと私達だけの、いや、私だけのaikoでいて欲しい気持ちである。
 以上、「Tinyな女の子」から他曲との比較を挟みつつ「二時頃」にある略奪と喪失のイメージについて考察してみたが、肝心の歌詞の内容についてはまだ一ミリも触れていない。以降は第二部として歌詞の読解を手がかりに「二時頃」についてより深く考えてみたい。



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