■雲は白リンゴは赤 概要
「雲は白リンゴは赤」は2006年7月12日に発売された、aikoのシングルとしては二十作目という節目に当たるシングルである。この一月後には六枚目のアルバム「彼女」が発売されるので先行シングルといったところだろう。PVではライブ映像場面もありFC抽選で撮影に参加出来たはずで今思い出すとちょっと懐かしい。それ以外に晴天の場面と、aikoが傘を持っている雨の場面があるのだが、この傘を持ったaikoがハチャメチャに可愛いので未見の方はYouTube・aiko公式チャンネルにショートサイズがアップロードされているので1122回は見て欲しい。
 その晴天のシーンと雨のシーンの存在が、曲の世界観をそれとなく表現している気がする。「夏は何度もやってくる」のフレーズにあるようにストレートに夏の曲であるが、既に何度か書いているように曲調に反して歌詞の内容はやや暗めであり、失恋から未だに立ち直れずにいるあたしの夏を歌っている。
 夏という季節を「最高と最悪をいちばんリアルに感じられる」とaikoが言っていたのは先述した通りで、私もまた「動と静、光と闇の両立」が(aikoにおける)夏という季節の本質だと考えたが、明るい曲調と切ない歌詞の共存、PVでの晴天と雨天の共存でその本質が表現出来ている以上、2017年現在で最も「夏」を象徴する一曲であると言えよう。

■歌詞を読む ―― 何度もやってくる夏に
 雲は白リンゴは赤というタイトルがまず物珍しげに聞こえるが、aiko曰く「雲は白だし、リンゴが赤いって、みんなが当たり前に思うように“私はあなたが好きです”っていう」意味でのタイトルだそうだ。雲は歌詞中には出てこないが夏にひっかけるならばおそらく入道雲の白だろうし、リンゴの赤はお祭りで売られるりんご飴の赤で、タイトルから感じ取れる色彩はくっきりとしている。そこに込められた真意は一見ではわからず調べないとわからないが、あたしがあなたをまだ好きなことは歌詞からも感じ取れる。それこそaikoが「当たり前に思うように」と言ってしまえる程に。
「あたしもあれからいろいろあったよ 訳が解らない日もあった」とAメロは歌い出される。あれから。歌詞を読んでいくとわかるがおそらくあなたとの別離を表している。「毎日を過ごすのがこんなにも辛いなんて」は夏に限った話ではないにしろ、オリコンにて「(夏は)楽しいことをたくさん経験してきた季節だからこそ、1人の夏を過ごす時は、楽しかった夏を思い出して辛かったり寂しかったりするし…」と言っていたように一人で過ごす夏がどれほど辛いかの表れと読める。
 そんな中にあると自己嫌悪が甚だしくなるのもむべなるかなで、「2人の間を隔てたものはあたしの心の黒いもの/絶対そうだと思い込んだ 寂しすぎるあたしの心」に共感を覚える人も多いだろう。ただこの部分、彼女発売時の雑誌に掲載されたセルフライナーノーツにおいて「絶対にそうだと思い込んでたことが、実はそうじゃなかったと気づいてしまった瞬間って、ホントに悲しすぎるけど、大丈夫になりたいよね」とサビ歌詞にひっかけつつ語っているので、実はそうじゃなかった=あなた側に非があった、あなた側があたしへの好意をなくしていった、という読みも可能だ。それだったのならば、この曲が未練たらたらなのも仕方ない。
 サビへと繋がるBメロへ行こう。「夏は何度もやって来る 暑くて空も高くて」のフレーズは誰の記憶にもある夏の一場面が脳裏に去来することだろうと思う。個人的にはこの「夏は何度もやって来る」に古今東西のループものを思い出してしまうのだが(いわゆるループものは何故か夏が舞台となるものが多い)そうなのだ。残念ながらと言うか何というか、どの季節もそうなのだが生きている限り夏は何度もやってきてしまう。aikoが「楽しかった夏を思い出して辛かったりする」ということを「最悪」と評していたように、現在一人でいて、今もなおあなたを恋い慕っているあたしにもあなたとの思い出が何度もループするのだ。「あなたといた道が今もちゃんとゆらゆらしてる」と、上手くいっていたあの頃の思い出が夏らしい陽炎に今も、そして来年も再来年も揺らめいているのである。
 白い雲が浮かんでいるであろう青い空――「笑顔の空」はしかしそんなあたしのことなど知らないのである。「ぬけがら」で「白い雲が流れていく 赤い夕日が暮れていく/空はそれでもいいもんね」と歌われていたことを思い出すが、それはもしかするとあたしと別れたあなたもそうなのかも知れない。繋がる「あなたの様にあたしも大丈夫になりたい」の部分でそう思ってしまう。
 aikoはオリコンにて「女の子って一度ネガティブに考え出すと、ホントに奈落の底に落ちるじゃないですか。案外、男の子はカラッとしている人がまわりには多い気がしていて……」「もっと大丈夫になりたいってホント思いますね」と語っている。「男では耐えられない痛みでも 女なら耐えられます 強いから」と歌う曲も世の中にあるが、当然その逆もあるわけだ。ただ男女の区別なく人はそうそう簡単に別離のショックや罪悪感や後悔から抜け出せるものではない。停滞しているその人々を、しかし夏は知らずにやってきて、己が季節を誇示する灼熱の日々を届けていく。その皮肉さに改めて夏の残酷さを思わずにはいられない。
「リンゴの赤 水風船が割れた/こぼれ落ちた水にまぎれ泣いた」でサビは終わるが、かつてあなたと行った夏祭りの記憶だろうか。「水風船が割れた」については発売時のインタビューにて「あの堅い水風船は割れないじゃないですか、ほとんど。でもそれが割れてしまうくらいのせきをきった私の涙みたいな、そういうことを歌詞では表現してたりとか」となかなかに重要なことをさらっと話している。「まぎれ」泣いたとあるので、隠れて泣いたのか、あなたにわからないように泣いたのか。お祭りの記憶は楽しい思い出として保存されていないようである。

 二番では過去と現在が語られる。「交わした言葉ぶつかった2人 それでも知らない事ばかり/不安をうめる様に抱きしめ返した夜」と在りし日の二人が歌われるが、距離も埋まらなければ不安も埋まらなかったらしい。「まだ好きなの? と言われそうだから 誰にも言えないこの想い」も共感ポイントの高いリリックで私も好きなところだが、続く「細い糸を紡ぐ様よ 切れないであたしの心」に危うさを感じる。危うさというか、何となく、「もういいや」と思ったらあなたへの未練は一気にすっぱりなくなってしまうんだろうと思う。細い糸ということはそういうことじゃないだろうか。諦めるか、それでも想い続けるかの瀬戸際に実際のところあたしは立たされていて、故に「切れないであたしの心」と祈るのだ。
 二番Bメロの「逢いたい逢いたい逢いたいと強く願ってれば/なんとなく届く様な気がしてならないのです」の「逢いたい逢いたい逢いたい」はライブで客席にマイクが向けられるのが定番なところだが、そのパフォーマンスの積極性に反して思うのが、三回も繰り返すレベルだから相当なんだろうなということである。細い糸を切らしたくない。だから願う。偶然の出逢いを期待する。誰しもがそんな幸運を望むだろう。あわよくば、やり直せることも望むだろう。
 サビで、けれどもやっぱり現実に叩き落とされる。「夢中で空仰いで目の中に星 沢山散らばる/あなたとまた同じ夢を見たい」と星に願っても、しかし! だ。「時止まらず暮れて影は伸びた」――そう。時は止まることなく季節は巡る。現実は非情である。
 時は止まらない。だから「夏は何度もやって来る」のだ。そのフレーズの通りに一番Bメロはラストサビ前で再び繰り返される。あたしにとっては嬉しかったことと悲しかったことを同時に思い出す夏。「暑くて空も高」い夏だ。あたし以外は絶好調の季節だ。これが秋や冬だったのなら天気も空もグズついているからまだダメージは低かったかも知れないが、どっこい夏はそんな繊細な考えを持ち合わせていない。「あなたといた道が今もちゃんとゆらゆらしてる」とやはり夏らしい陽炎に揺れる。既にそういう前提で書いているが、この「道」は物理的な道もそうだけれど、ひっくるめてあなたとの思い出の象徴だろう。二人の思い出はあたしの中で生きていて、何度も訪れる夏の陽射しの中で何度でも揺らめくのだ。
 ラストの大サビも一番のサビがリフレインする。あなたはもう大分前に進んでいるのだろう。あたしが「あなたのようにあたしも大丈夫にな」れる日はいつ来るのだろうか。続く「リンゴの赤 水風船が割れた」は夏祭りのあなたとの思い出だと思って読んでいたが、これを「現在お祭りにいる」と仮定して読むと切なさが倍増する。二人でいたお祭りが今は一人ぼっちだ。そのことで「こぼれ落ちた水にまぎれ泣いた」のかも知れないし、堅くてなかなか割れない水風船が割れたことに喩えられたあたしの涙も、その孤独と想いの果てなさに我慢が途切れて放たれたものなのかも知れない。

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