■メタソング――「アンドロメダ」との対比
 先に引用したインタビューをもう少し引用すると、別冊カドカワは「それだけaikoとしてみんなに「聴いてほしい!」っていう気持ちが強かったんだと思いますね」と先の言葉に続けている。ナタリーのインタビューでは「聴いてくれるみんなが日常の中のいろんな瞬間に鼻歌で歌ったりして、この曲がみんなのものになったらいいなあって」とある。これらの言葉を踏まえると、「明日の歌」は歌い手たるaikoが敢えて出てくることを辞さないくらい、ファンの皆に「聴いてもらいたい」一曲だったことがわかる。
 過去、このように歌い手のaikoが曲中で曲のことについて言及(自己言及)するものがなかったのかと言えば、そうでもない。思い出せる限りでは二曲ある。「この歌が届いてればいいんですケド…」と今でも好きな人にどこかたどたどしく想いを伝える「ボブ」と、曲の最後の最後に「この歌よ誰が聴いてくれる?」と呼び掛ける「アンドロメダ」である。「明日の歌」により近く、興味深いのは「アンドロメダ」だ。少しこの曲について「明日の歌」と共に考えていく。
 実を言うと発売当時からこの「アンドロメダ」は自分の中で「歌詞がなんかよくわからん曲」として君臨し続けている。よくわからないと言うのは設定、世界観やストーリーではなく(むしろaiko曲の中ではかなり明確に独自の設定がなされていてわかりやすい方だと思う)「記憶のクリップ」が出てくる二番Aメロ付近のあれこれなのだが、一番わからなかったのがこのラストの「この歌よ誰が聴いてくれる?」だったのだ。このフレーズについては当時ちゃんとインタビュー等で言及されていたと思うのだが、発売当時はおこづかいに余裕のない高校生時代だったので雑誌を買い集めることも出来なかった。そんなわけでアンドロメダの資料は実に乏しい。精々がaikobonに頼るしかない。
 この曲が出来た経緯は多くのaikoファンが知っているものと思うが、キャンペーン中で疲労していたaikoが、遠くのものが霞んで見えなくなったことが第一の背景としてある。aikobonライナーノーツにはこう書かれている。「私すごい視力いいのに、なぜかぼやけて見えんくて。「(前略)こうやって私は大事なものも見落としていくんやろうな~。すっごい大切な人が今、信号の向こうに立ったとしても、今の私には見つけることができないな~」って、なんかとんでもなく落ち込んでしまって、それで曲にしたんですよね」
「とんでもなく落ち込んで」いる時に書かれていることを踏まえれば、最後の「この歌よ」はどこか「途方に暮れている」感じを表していると言えようか。「誰が聴いてくれる?」としか言われていないので、曲における状況はそのままである。これこれこう言う状態で、全くどうにもしがたいナア、と呈示されているだけだ。
 聴いているこちらからすればあの部分はどうしても「メタ」的なフレーズにしか思えない。私が長年この部分を聴くたびに「ひょっ?」と思ってしまうのもそのメタフレーズの所為だ。メタとは「高次な―」「超―」「―間の」「―を含んだ」「―の後ろの」等の意味の接頭語であり、ネットの動画などではよく「メタ発言」とされるものが見られる。この「メタ発言」が今回の例としてわかりやすいのでニコニコ大百科から引用すると「発言内容が本来なら発言者の関知しえないはずの領域に言及している発言のこと」のことで、この稿での扱いは「これはあくまでも「歌である」と示唆するフレーズ」くらいに捉えて頂けると助かる。
 他の曲だと聴衆であり、読者である私達は「あたし」と「あなた」の物語としてaikoの曲を聴いていて、「あたし」に共感したり自分を重ねたりするが、それ以上でも以下でもない。それはわざわざ曲の方から言われなくてもわかっていること、暗黙の了解として成立している。私もそういうスタンスで考察や読解をしている。
 ところが、アンドロメダは最後の最後に「この歌よ誰が聴いてくれる?」と、アンドロメダ自体が一つの「曲」であり、一個の固有の「物語」であることを暴露してしまっているのである。別にそんなことをしなくてもよかったのに、である。仮にこの部分がなくとも十分アンドロメダはaikoの曲として成立しただろうし、むしろある方に違和感があるとも言える。
 リスナーは「ああ、これは歌だったんだな」と最後で初めて気付くことになる。このフレーズが置かれていることにより、アンドロメダにおける「あたし」と「あなた」の物語はより客観的な、高次的な見地から見られざるを得なくなったとも言えるだろう。主人公である「あたし」及び歌い手かつ作者であるaiko自身も、冷静な立場から今の状況を俯瞰することが出来るようになった。aikoの当時の状況を考えると、今の自分の状態を冷静な立場で眺め、一度整理しておきたかった故にこのようなフレーズが生まれたのかも知れない。既に歌手としての人気を不動のものにしていたと言うのに「誰が聴いてくれる?」と疑問を投げかけているところも、彼女の人となり、そして常に抱えている不安を思えばそれほどおかしくない話かも知れない。歌手としての自信を失くしていた、とも考えられる。
 しかし明日の歌はアンドロメダとは少し違う。アンドロメダの「あたし」は徹頭徹尾「あたし」と「あなた」だけを見ていて、自分の外にある存在、つまり私達リスナーの存在にはちっとも触れない。確かに「誰が聴いてくれる?」と反語風に書くことで暗に外の誰か、聴衆の私達を匂わせてはいるが、そこに直接呼びかけることはしない。「あたし」が枠を超えることはないのだ。彼女はただ「この歌よ」と歌うことで「あたし」と「あなた」の世界(アンドロメダの曲の世界)を作る――パッケージングしてしまうだけだ。要はアンドロメダは今まで別に晒すことのなかった(その必要もなかった)パッケージングの瞬間を歌詞の上で晒してしまったとも言える。アンドロメダを聴く私達はあくまで「観客」である。「わかるわー」と「あたし」に共感しつつ、歌い手・主人公の「あたし」からの干渉は受けない。あくまでアンドロメダは「舞台」だ。
 ところが明日の歌の「これはあなたの歌 嫌なあなたの歌」はそうではない。「これ」と、まず曲(「痛くて苦しくなるんだね」までの「明日の歌」)自体を指すことで、一度曲の世界からリスナーも歌い手も分離し、曲の世界を俯瞰させる。その上で「あなたの歌」と歌う。これはどこかの「あたし」と「あなた」の物語ではなく、聴衆であるあなた達自身の物語であるのだ、と呼び掛けるのである。「あたし」でもあり、歌い手かつ作者であるaikoから干渉を受けるのである。受けてしまう、のである。自分達がいつか体験すること、あるいはかつて体験したこととして、ただの観客でしかなかった私達に大きく揺さぶりをかけてくる。そしてそのことがより大きな共感を呼ぶのである。



「誰が聴いてくれる?」と言う言葉から十一年を経て「これはあなたの歌」と呼び掛けられるまでになったことは、かなり大きな変化ではないだろうか。先に引用したインタビューでも見たように、今までは避けてきた言い回しを使ってでも、と言う気持ちも勿論だが、「聴いてくれる誰かがいる」とaikoが十年以上の時を経てようやく確信を持って書けるようになったと言うことも見逃しがたく思う。文章の表現方法としても、枠を超える、虚構と現実の線引きをなくすように出来たことはかなり大きな変化である。

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