■内側へ向かう「舌打ち」
アンドロメダは十一年前の曲なので(もうそんな前なのか……)最近の曲に「明日の歌」と共通項を感じるものはないだろうかと思えば、すぐに見つかる。泡愛と同年の二〇一四年一月に発売されたシングル「君の隣」のカップリング「舌打ち」である。曲のタイトルからして何やら物々しく、サウンドも聴いてもらえばお分かりの通り想像以上に攻撃的である。「君の隣」と「朝寝ぼう」に挟まれてこの曲が存在しているのが個人的には何とも言えず不思議と言うか配置の妙を思わせて、喩えるなら長閑なお花畑のど真ん中にあるスズメバチの巣のようなものだと思っている(どういう喩えだよ)
ワッツインのインタビューではこんな風に語っている。「よく自分に舌打ちするんですよ。(中略)「ほんっま、しょーもないわ! ナニしてんねん! チッ!」って。それをうわーって書きました」「思うところに到達しなかったり、思う方向に自分がちゃんと向いてなかったりすると、イラッとする。私はとにかくだらしない人間で(中略)そういう自分の性格を改めて客観的に見て書きました。「なーんやねん!」ってとこを吐き出した」――aikoがそう言うように、この曲はとにかく自分に対しての攻撃と敵意しか感じない曲なのである。
ざっと曲の状況と概要を見ていく。「あたし」と「あなた」の恋愛は一応は継続中のようにも読めるが、最後には破局を迎えているようにも読めるし、多分読者に依るのだろう。どちらにしろ危うい関係にあると見える。そんなギリギリな「あたし」は「あなた」を独占したい、もっと知りたいと言うドロドロとした気持ちがこれでもかと歌詞中に流れている。
同時に強く撃ちこまれるのは、aikoがインタビューで言っていたような自己嫌悪感である。と言うかそっちの方が多い。私的にはそう思える。とにかく自分を責/攻めている。「回りくどい言い方しか出来ないダメなの」「弱い弱い今のあたし」「誰のせいでもないわ ああいつもあたしのせい」極めつけは「無くした後に気付いてしまったバカ」である。バカて。んなストレートな。と歌詞を眺めていて私もポカーンとしてしまった。ちなみに「バカ(馬鹿含む)」が出てくる曲はこの「舌打ち」だけであり、もう少し丁寧かつ詩的な言い方の「愚か者」が出てくるのは「えりあし」一曲だけである(二〇一四年十一月現在)(テレビゲームの「ばからしく」は形容詞なので除外)
こんな風に自己嫌悪を溜めこむようになるほど、「あなた」と言う存在に縛られているのである――と普通の曲だったら言うだろうが、この「舌打ち」はむしろ「あなた」に「あたし」が固執しているだけの曲じゃないのだろうか。「だって忘れたくないんやもん どうしてもちぎれないんだもん」と関西弁交じりのこのフレーズは子供がだだをこねているような印象がある。どうしてかと言うと――だいたい、この曲は「あなた」側の動きが全く見えないのだ。「見つめても目の奥がどうしても見えないよ」のフレーズそのものである。と言うか、と歌詞を読んでいて閃いた。「目の奥がどうしても見えない」のも、「あなた」の動きが読めない、どんな人なのかわからないのも、それもこれも全て、主人公である「あたし」が見ているのは「あたし」自身だけだからだ。インタビューにある「自分の性格を改めて客観的に見て書いた」の言葉通りである。
「明日の歌」との共通項は何かと言うと、外見的には言葉数の多さ、内面的には堂々巡りを繰り返す自分への嫌悪(「嫌な」あなたの歌)なのだが、それにしたって「舌打ち」は後者が苛烈過ぎる気がする。明日の歌の「あたし」はここまで自己嫌悪に埋没していないし、固執してもいない。
「舌打ち」は内側へ、内側へ、と自分の世界に完全に嵌まり込んでいるし(悪い方向に自己完結している)なおかつネガティブの極致にいるのだからどうにも始末が悪い。なにせ自分のことなので入り口も出口もない。堕ちるところまで堕ちるしかないし、どうにかこうにか打開するにしたって正解も答えも出てこないだろう。しかも自分で「ダメ」「弱い」「バカ」と言ってしまっているので尚更地獄である。呪いを溜め込んでヘドロになってしまうのがオチであろう。これは私だけかも知れないが「舌打ち」を聴くとどうにも気持ちがどんよりしてしまうのは、この自己嫌悪の嵐に当てられてしまうからかも知れない。LLP17と17.5での舞台バックスクリーンの演出も叩きつけるように歌詞が流れては消え流れては消え、というもので非常に荒っぽかった。決して嫌いな曲と言うわけではないが、マア、こういう曲もあってこそのaikoである。系譜的には「ライン」や「ひとりよがり」の血筋を引いているかも知れない。それにしてもこの曲が「君の隣」と「朝寝ぼう」に挟まれてると言うのは、最初に書いた通り何とも不思議である。やはりお花畑で日向ぼっこしていたら突然雷雨に見舞われてしまった、くらい唐突で、様変わり感があると思う……。
■他者の存在
「舌打ち」に、「明日の歌」の「誰かが鼻歌であの雲の向こうまで 笑い飛ばしてくれますように」のように少しでも「良くなりますように」と言う希望の欠片を見出せればまだ救いがあったものを、私の読みではどうも見出せない。
そんなことを書きつつ、さて「明日の歌」に戻るのだが、「舌打ち」から四ヶ月後に現れアルバムの最初を飾る「明日の歌」も、先述したように一聴すると言葉数の多さ、それによる早口の歌、相手に未練タラタラの自分をどこか嫌悪するような歌詞、と「舌打ち」と同じ路線のように思うけれど、そうではない。最初に「明日の歌」の概要をざっと書いたが、まだ「舌打ち」ほど陰惨ではない。何より「明日の歌」は、アンドロメダとの比較の図に描いたように「外」へと向かっているのだ。内へ向かっている「舌打ち」とは決定的に違う点はそこだ。
「外」――つまり聴衆と言う「他者」へ向かうこと(歌手である自分を感じさせること)は、aikoが避けてきた手法でもあることはインタビューの引用で見た通りである。それは言い変えれば、今までのaiko曲が成し得なかったことを出来たと言う、見過ごせない一曲、と言うことでもある。
ところで私は最初、「誰かが鼻歌であの雲の向こうまで 笑い飛ばしてくれますように」と言うフレーズを嫌った。「誰かがってなんだよー、自分で笑い飛ばせるようになるんじゃないんかいやー」などと勝手なことを抜かしていたのであるが、少し考えてみよう。
物事を自分から切り離さない以上、何事にも限界が生じてくる。言ってみればエントロピーがどんどん大きくなる、みたいなものだろうか。ともかく自分で出来ることには限りがある。「明日の歌」の「あたし」は、聴く限りでは現状を何とかする解決策を用意してはいない。ある意味ではどんづまりだ。痛くて苦しい現在の状況を繰り返している。ただそれだけだ。そんな状況で(自分が)笑い飛ばせるようになってやると仮に歌われたところで所詮強がり以外の何物でもなく、結局この曲は閉塞感を募らせたまま幕を閉じるだろう。それじゃ「舌打ち」と変わらない。――ではどうすればいいのか。
その答えが「誰か」である。自己を相対化する「誰か」と言う他者、他己が必要となるのだ。
よく、悩み事は人に話すだけでも楽になると言われるが、それと似ている。物事を自分から切り離せば、自分以外の誰かが、答えも出口もなかったそこに新しい意味を、答えを、出口を見出し、与えてくれる。それは自分一人では決して出来ないことだ。内へ向かい自己嫌悪を溜めるだけの「舌打ち」に他者はいない。けれど「明日の歌」には他者がいる。楽曲自体が外に向けられているからだ。聴いているリスナー一人一人に向けられているからだ。第一の他者は私達リスナーで、第二の他者は「笑い飛ばしてくれ」る「誰か」である。
他者が笑い飛ばす。それは当人にとっては心外かも知れないが、意外とそれで救われたりもしないだろうか。大きな空の下では自分の存在も悩みもちっぽけに感じてしまうのと同様、たとえ気休めに過ぎなくとも、その時、痛みも苦しみも忘れることが出来る。明日はもしかしたら、何かいいことがあるかも知れない。少しは調子が良くなるかも知れない。何かが変わるかもしれない。今は大嫌いな自分でも、少しは好きになれるかも知れない。そんな風に希望を抱くことが出来る。それは自分以外の誰かがいてくれるからこそ、ではないだろうか。