■aikoと言う「君」の隣――私達の「明日の歌」
 自分以外の誰かと言う他者。その他者を二人称単数で「あなた」や「君」と書き換えれば、自ずから「君の隣」と言う最近のaikoの中では屈指の名曲を彷彿とはしないだろうか。この曲も「君」と言う他者の尊さを歌っている曲であるが、「これはホントにライブをやってたからできた曲なんです」とワッツインインタビューでaikoは語っている。

「心の中に今日(ライブ)のことを少しでも残してもらうためにはどうしたらいいだろうって思うんですね。この歌詞は、そのときの気持ちなんです」
「やっぱりずっとライブをし続けてなかったら、こういう感情も生まれてなかったと思います。(中略)(ツアーで体調が悪くなった時も)みんなが一生懸命ライブを作ろうとしてくれて。もう感謝の気持ちでいっぱいやったし、そのことは忘れられないです。だから、そこからさらに(リスナーとの関係を)育てていきたいなと思って、そういう気持ちを歌詞にしました」
(そういう関係性を実感したのも)「わりと最近ですね。ここまで来るのに十年くらいかかったと思います」

「君の隣」と言う、ライブにおける私達とaikoを意識した曲が十五周年を経てようやく生まれたことを踏まえれば、「明日の歌」もまた「君の隣」と同じく、十五年で数多くのライブを経たからこそ生まれた曲ではないだろうか。アンドロメダとの対比の段落で「誰が聴いてくれる?」から「これはあなたの歌」へと大きく変化したと既に書いたが、歌手活動も勿論のこと、十五年精力的にライブを続けてきたことが変化の一番の理由だったのだろう。
 ライブは、言ってみればaikoと聴衆たる我々が生身でぶつかる唯一の場所である。よくaikoは「一人一人に歌う」と言っているが――「明日の歌」の「これはあなたの歌 嫌なあなたの歌」は、一度曲の世界を聴衆から切り離している。「これ」と指し示す歌い手も同様に曲と「あたし」から分離し、歌い手と言う独自の存在になる。聴衆と歌い手はこの時、紛れもない隣り合う、向き合う他者同士となるわけだ。
 このフレーズと続く「誰かが…」のみこの曲から浮いていることになるが、その時一人一人のリスナーの隣にいるのは歌い手たるaikoだけである。aikoと言う「君」の隣に私がいて――私と言う「君」の隣にaikoがいる。aikoは私に歌い、私はそれを受け取る。これはまさしく、aikoが常に言っている「一人一人に歌う」の実現に他ならないではないか。ナタリーのインタビューで「この曲がみんなのものになったらいいなあ」とaikoは言っていたが、もうこの曲を聴いた時点で、この曲はaikoから贈られる「あなたの歌」となっているのだ。リスナーの私達それぞれに、ほかならぬaikoから「明日の歌」が与えられたのである。
 これはやはり、aiko史上初とも言えるすごいことではないだろうか。

■明日救済される世界より
 今は嫌な自分でも、苦しみや痛みがあっても――あらゆることを、いつか誰かが鼻歌で、あの雲の向こうまで笑い飛ばしてくれますように。aikoから贈られる「明日の歌」はそんな風に締めくくられる。
 この「誰か」は自分ではない誰か、完全なる第三者とは限らない。未来の自分もまた「誰か」ではないだろうか。二番サビで言うところの「いつか遠い遠いあたしも知らないあたし」が「もう一度包」まれ、そして「笑い飛ばしてくれ」る。今は苦しくても、笑い飛ばせる明日が、いつか来ますように。先日好評の内に終了したLove Like Pop 17.5の最後の曲がこの曲だったが、aikoも歌の前にそんな風に話していたことを覚えている。
 そのことを思い出すと、私は急に涙ぐんでしまう。あくまでもこれは「くれますように」と表される「願い」である。aiko本人の性格を考えれば納得出来るが、確証してくれるわけではない。必ず果たされる約束でもない。ただ、儚い「祈り」だけがある。それでも、私達の為に捧げられた尊い祈りである。その祈りが願うのは「救済」だ。どこにも進めない自分を救い上げる。行き止まりを突き破る。そうして、来ないと思っていた明日を、私達は再び希求出来るようになる。それこそaikoが言うように、笑い飛ばせる明日がいつか来ますようにと。
 やがてそれはそれぞれの中で確信に変わっていく。いつか誰かが、そして自分が笑い飛ばせる明日がやってくる。――故にこの曲は「明日の歌」と題されているのだ。

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