■形あるもの
 二番Aメロに入ろう。ここも一番Bメロ並み以上に気に入っている箇所なのだが、と言うのも、とても大事なことをさらりと、しかしはっきりと書かれている。そう感じるからだ。
「「形あるもの」みたい 感じてるあなたへの想いに/体が震える程あたしぐっときてるから」であるけれど、さて、「形あるもの」とわざわざカギ括弧まで付けているのだが、どうしてあたしはそんなことをするのだろう。
 答えは明白である。人の“想い”というものは、それがどんなに大きかろうが複雑であろうが、どれだけ巨大な感情を滾らせて、あるいはこじらせていようが、所詮は(と言う書き方もぞんざいだが)形而上のものでしかない。それを現実に、物理的なものとして差し出すことは出来ないし、そうなると当然見ることも出来ないし触れることも出来ない。簡単に言えば、この歌詞とは正反対の、「形ないもの」なのだ。
 しかしながら、そんなものだと言うのはきっと「「形あるもの」みたい」と言うあたし自身こそわかっているのである。想いは見えない。あなたの前で出すことは出来ない。勿論自分でも確認出来ない。けれども、「もしかして、本当は形のあるもので、この現実に存在していて、目で見て、手で触れられて、感じられるものなんじゃないのか?」と言うほどの猛烈な、存在感のある“あなたへの想い”を「体が震える程」「ぐっときてる」くらいあたしは今ひしひしと感じているのである。
 それを、二番の入りのAメロ、軽快なサウンドとメロディに乗せ、それほど重要ではなさそうにさらりと歌いこなしていくのだ。すごくいいこと、と言うかとんでもない強い想いをことさらにひけらかさず、何てことはないように歌っているし、綴っているなあと私は感じるのだ。いや本当に強い想いではないか。「フレンド」の時点でそれは重いぞaikoさん!(言いたい放題)
 ……いやいや、よくよく読めば実は重たいことや深刻過ぎることを、さらっとしれっと何てことなく歌っていくのが何ともaikoらしいのかも知れない。「ボーイフレンド」のこの箇所、および他の箇所でもその作風が出ていて、さすが代表曲であるナアと今更ながらに感心するのであった。


■穏やかな今にいる
 二番Bメロに行こう。「哀れな昨日」は一番Bの「雨」とリンクしていると見ていいだろう。何かしらの嫌なこと、あたしにとっての辛く悲しい、哀れな過去を端的に表現している。今は恋に浮かれて能天気に見えるあたしだが、彼女にも色々あったのだ。しかし現在は「穏やかな今」と歌うように、その憂鬱な時代は過ぎ去り、あなたと出逢い恋に堕ち、その恋が成就したおかげで以前より心穏やかに暮らせていることを教えてくれる。

 ここの箇所ではふと何となく、「ボーイフレンド」の前に発売された「桜の時」冒頭を思い出す。「あなたと逢えたことで全て報われた気がするよ」「雨上がりの虹を教えてくれた ありがとう」と綴っていたあの主人公も、あなたと出逢い恋に堕ちたことで救われていた。「ボーイフレンド」では「桜の時」ほど具体的に語られるわけではないが、改めて俯瞰してみるとどちらも、恋に堕ち、結ばれることで──もっと言うと、あなたに出逢い、好きになった、恋をしたことで救われたと言うストーリー類型が読み取れる。

 二人の日々が続いていく表現として「地球儀は今日も回るけれど」と書かれるのも非常に秀逸な表現だなあとつくづく思う。そしてあたしは、続いていく穏やかな今の日常の中で「形あるもの」と錯覚するくらいあなたへの強い想いを抱きながら、「只明日もあなたの事を限りなく想って歌うだろう」と今もまさに歌い上げていくのである。本当にフレンドでいいのか? 本当に! と思ってしまう。──まあaikoのインタビューでも見た通り、あくまで想像の話ゆえに距離を置いた三人称になってしまっている、というだけなので突っ込むだけ野暮な話である(そもそも、考えてみたところでボーイフレンド以外にしっくりくるものがない)

 それにしても──何気なくのんびり続く、穏やかな生活(たとえば「ストロー」で描かれている、生活感溢れる二人のような)の中で、普通にして見えるあたしの内面には、これほど力強い想いがある。しかしそれを表面上は感じさせないのである。これもまた、一見すれば小さくてチャーミングで関西弁がベリーベリーキュートなaikoと言う歌手が、見た目に反し壮絶で凄絶で地獄な恋愛模様の曲を歌いあげてはけろりとしている……そんな、aikoにある極端な二面性を「ボーイフレンド」でもふと見出せた気がした。二番AとBを読んで、そんなことを思ったのである。


■どんな困難でもあたし達には
 大きな想いをあくまでカジュアルに、ポップに歌い上げてサビへ向かう。「まつげの先に刺さった陽射しの上/大きな雲の中突き進もう」──テトラポットを登って、睨んだてっぺん先にある、陽射しの眩しい空の向こう側。当然雲の中も突き進む勢いだ。雲の中は五里霧中と言う言葉もあるが、モクモクしていて白くて周りが見えないイメージだが、それは転じて「たとえ困難に見舞われ、周りが見えなくなったとしても、あたし達は進んでいく」と言う表明なのだろう。きっと「二人の形」の「雨が降ったらはぐれないように指の間握ろう」のように、あたしとあなたの二人はぎゅっと手を繋いでいる。


■人と人との肉体的なふれあいについて
 続く「あなたがあたしの耳を熱くさせたら」も一番サビと同様にそこはかとないエロスの感じられる接触の表現だ。直接耳に触れたのか、それとも言葉できゅんと熱くさせたのか、どちらにせよ二人の仲睦まじさが感じられる箇所である。
 ふと、「湿った夏の始まり」の「だから」で綴られている、「だからあなたの肌を触らせてよ/わからないから触らせてよ」と言う歌詞や、湿った夏の始まり発売時のインタビューにおいてaikoが特に語っていたことを、これらの接触を表現するフレーズで思い出してしまう。人と人の物理的な接触、どんなに世間がデジタルかつオンラインに成り代わっていこうとも、あるいは人との精神的な繋がりがどれだけ希薄になっていこうとも、肌と肌で触れ合えること──わかりやすく言えばライブやイベント会場における生の空気感や温度感がそうした中でいかに重要であったか、と言うことを、改めて思う。
 それは勿論、このボーイフレンド稿を執筆している2020年がコロナ禍と言う災厄に見舞われた所為もあり、だからこそ改めて痛感していることなのだが、aikoがあらゆる曲で、物理に訴える、肉体に訴求するフィジカルな表現を頻繁に用いているのは、aikoが人と人の物理的な、熱の通った繋がりの大切さを本能的にわかっていて、曲を通して沢山の人に伝えていきたいと思っているからこそなのだろう。


■向かうところ敵なし
 少し横道にそれたので先に進もう。一番では「二人の時間は止まる」である種の永遠を表現していたが、二番では「このまま二人は行ける」と、「止まる」とは反対の「行ける」が用いられている。端的に言えば二人の関係の「継続」や「持続」を歌っているわけで、一番で考えた「永遠」とむしろ類似するものとなっている。始まったばかりゆえに終わりが見えていない、だからこんな強気な表現を持ち出せるのだが、なんかもう、向かうところ敵なしのラブラブな二人である。
 向かうところ敵なし。そう、「持続」しながら「永遠」を感じさせるものでもあるのは、ちょっとどころかだいぶ非の打ちどころがない。「お互いのいいところや悪いところを何も知らない、ワクワクするしかない、だからこんな上り調子な歌になる」とは言うものの、恋の始まりにどれだけ莫大なエネルギーが込められているか。未来への希望や可能性は、こんなに眩しくて強いものなのだな、と改めて思う次第である。



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