■自分がどうしたいか
「二人の形」を読んでいく。ゆったりしたリズムと微睡から徐々に現実が鮮明になっていくようなフェードインで「二人の形」は始まる。
「ハンカチ1つ乾かないそんな心の中じゃ/見つかる物も見つかんないわ 少し暖めて下さい」とあたしの心の中が早速描写されていく。ハンカチも乾かない、湿った心であると言う。元気がなく、悲しみや寂しさ、人と人との心のぶつかり合いから来る疲れや虚しさが彼女の現在を重いものにしていたようだ。「見つかる物も見つからない」と歌われるが、当然見えて然るべきものや、生きる道しるべのようなもの、もっと単純に言うなら生きる気力があたしから抜け落ちていた。それに気付かないまま生きていたならばどこかで本当に壊れてしまっていたかも知れないが、このままではいけない、そう気付けたのは「少し暖めて下さい」と言える「あなた」の存在を近くに感じたからではないだろうか。あたしは恋するため、強い想いに急かされた、背中を押されたと言うよりは、それよりも生きるために「あなた」を求めた。
 そう。あなたの存在はとても近くにいる。「あなたののどを流れる息にあたしの前髪が揺れる」、そのくらいの近さだ。この曲の表現では特に気に入っているもので、よく近さや傍にいる時の表現として私もこっそり作品中で使ってしまう。「前髪」と言うのがなかなか憎いところで、ひょっとすると二人は一緒に眠っているのかもしれない。眠りから覚めるようなイントロも、この曲の設定がまさにそんな状況だからで、歌われている大義も微睡の余韻が残る中であたしが初めて自覚したことだったのかもしれないが、これはあくまで深読みやより道に過ぎない考察である。
 そんな中であたしは思う。暖めてもらいたいあなたに対し、「季節変わっても時が経ってもあなたのそばにいたい」と。明確な気持ちを朗々と歌い上げるサビに先駆けて「あなたのそばにいたい」と、それこそ初めて宿った気持ちをそのまま出したかのようにそれはそっと綴られる。先述した場所と状況の設定とは食い違ってしまうのだが、もしかするとここで初めてあたしはあなたへの気持ちが恋愛だと認めたというか、あなたへの気持ちを恋愛へ切り替えたような、二番のことを踏まえてそんな風に私は読んでしまう。
 そんなに深く踏み込むつもりはなかったのだけれど、そばにいたい。そう願った。もうそれは紛れもなく恋だ。そう思い至ったあたしは気付く。「あなたにはあたししかいないなんて/そんな事は到底言えないけれど/今のあたしにはあなたしかいらない」と。
 サビのこの部分が本当に本当に好き過ぎて、私はしばしばこんなことを伝える小説を書いてしまう。最初に聴いた十三の少女でしかなかった私でさえも「こんな言い方があるのか」と目から鱗、スコーンと頭を殴られたかのような衝撃を受けたのだ、しょうがない。
 ともかくここは何千回と復唱したいところである。それは何故かと言うと非常にシンプルなことであるが、恋愛でも夢でも何でも、基本的には「自分がどうしたいか」で以て行動を起こすべきだからだ。特に恋愛においてはそれくらい自分本位でいてもいいのではないか? 相手の気持ちを忖度するばかりで結局はどこにも進めないなんて思い出にも何にもなりゃしない。と言うのは言い過ぎかも知れないが「私はあなたが好き」「僕は君が好き」と言う、主語が一人称であるその想いが噛み合うのが本当に互いを想い合うこと、恋愛であるように私は思うのだ。
 しかしながらその大事なことが年を経るごとに見えなくなってきたり、自分本位であることがまるで悪のように世間的には思われたりしてしまう昨今である。その度「二人の形」のこの部分を聴いて認識を正すし、先駆者たるこの曲の偉大さを改めてしみじみと感じ入ってしまう私である。秋そばの「それだけ」にも言えることだが、こんな言葉言われたらもう後がなくなってしまう。肯定して受け止めるよりない、いい意味でずるいフレーズである。
 だがこれくらいの気持ちをはっきりと言える、歌えてしまうと言うのはあたしの持つ強さの証拠であると思う。ハンカチも乾かなかったようなじめっとした心だったのが、あなたと言う暖かさを得て、おそらくは恋愛の上で初めて生まれたこの気持ちを掴めた。自覚出来た。そして言葉に出来た。少し話はずれるが、確か「シアワセ」のインタビューでaikoが「“(あなたに)ついていくわ”なんてそんなはっきり言えない(それくらい自分は自信が無い、疑い深い)」と言うような旨を話していたのだが、言葉にすること、出来ることはそれ自体が強さだとやはり思えてしまう。
 それも「見えない気持ち」なのだ。あなたには勿論、あたしにも見えない。けれど、「見えない気持ちを信じて言える」のだ。この「見えない気持ち」と言う表現は最新作「湿った夏の始まり」のリード曲である「ハナガサイタ」一番にも登場し、「僕は見えない気持ちを言葉で繰り返すよ」と歌われている。見えないから、モノとして目の前に差し出せるものではないから、人によっては信じられるかどうかわからない。むしろ信じられない、信じたくない方が多いかもしれない。たとえば好きな人にもう一緒にいたくないとか、別れようと言われたらそうなるだろう。プラスの気持ちだろうがマイナスの気持ちだろうが、犬のように尻尾があるわけでもないし、気持ちはどこまで行っても見えない。それでも当人にはあるとわかっている。そして私達には言葉がある。だから口で伝えるし、歌うことも出来る。
 ただ、あたしが「信じて」と言っているのは文脈上当然そういうことではなく、この気持ちがそれまでのあたしが持ちえなかった、辿り着けなかった(あるいは気付けなかった)気持ちであると言うことだろう。けれど疑う間もなくあたしはこの気持ちを信じられた、正しくきちんと掴み取れた。心にすとん、と落ちた。到達出来たあたしが見る景色は、これまでとはきっとうんと違っているのではないだろうか。
 サビはこう締めくくられる。「あったかい夏の始まりそうなこの木の下で結ぼう」と。この曲が収録されているアルバムは「桜の木の下」であり、発売時期は春で、アルバムタイトルに冠されている桜も春を代表する花である。全体的に春の曲が多いと言うわけではないが(花火は夏だし、桃色は「冬の寒さ」と歌ってるし)春のアルバムと言って差し支えない。
 ないのだが、このフレーズが見据えているのは春の次の夏である。春のアルバムの中で次の季節、いわば未来を歌っていて、もう一番冒頭にいた湿っているあたしの姿は、あなたの暖かさと来る夏の予感の前にたちどころに消えていったのではないかと少し感動さえしてしまうのである。この「木の下」と言うのもアルバムタイトルの「桜の木の下」に少し掛けられているのでは、と思わせてとてもいいフレーズである(「桜の木の下」のタイトル由来については「悪口」の読解を参照)



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