■ある再会の物語
 aikoが語った内容を頭に置きつつ、歌詞を読んでいくことにする。
 物語は、あたしがある日偶然にあの子に再会するところからスタートしている。その前に置かれるフレーズ「あたしの気持ち掘り返してみたら/あの子の事ばかり 涙が出る」はまるで小説の冒頭、主人公がぽつりと語るモノローグのようだ。
 掘り返す、とは言うものの、おそらくは現在も含めて、あの子と出逢ってからの自分の気持ちはただひたすらに「あの子の事ばかり」だった。涙が出るのだから今もまだその気持ちは尽きていないし、むしろ別れた所為で余計に募っていることだろう。ずっとずっと、あたしの思い出の中には必ず「あの子」の姿が映っていただろう。この短い一節で、あたしがどれだけあの子のことを想ってきたか、今も思っているのか──いっそ重いくらい伝わってくる秀逸な箇所である。
 そんなあたしが、ある日街中であの子と偶然再会する。「逢わないうちに少し痩せたみたい/そのブルーの半袖いい感じね」──これはあくまで私の妄想だが、あたしは涙が出るくらいの自分の気持ちを必死に隠して、何てことないさっぱりした笑顔で「そのブルーの半袖いい感じね」と伝えているのではないだろうか。私はもう、大丈夫なんだよ。そう伝えるように……。
 それは置いといて、あの子があたしから見て「少し痩せたみたい」と思わせるくらいの間はそこそこ長いのではないだろうか。二人がどれくらい間を置いていたのか、距離を取っていたのか。あるいは時間を示すのではなく、あの子があたしから離れたことで気落ちして、その所為で痩せてしまったのか……と、色々な憶測が出来るフレーズだ。
 少し痩せた相手、と言うのは印象もどこか以前とは違って見える。それはつまり、ああ自分達は、二人は離れてしまったのだ、ということを思わせもするけれど、「ひまわりになったら」はそこまで突き放されている感じはしない。「そのブルーの半袖いい感じね」とあの子のファッションを褒めたりするのも、「別れたけれども、自分達はまだまだいい友達なんだ!」と新しい関係を、相手にも自分にも言い聞かせているような、そんな風に読める。
 だがそれは同時にあたしの強がりでもある。先述した通り「この箇所のあたしはきっと、あえて笑顔で伝えているのだろうなあ」と感じ取るのだけれど、実際はそれどころではないくらいあの子のことをまだまだ想い続けていることは、次の段落でも明らかになる。


■言えない、言わない、想いたち
 Aメロ後半、おそらくは再会した帰りに自室に戻ってきたところが描かれる。「あの子とあたしの愛の巣に帰ってきたら/いろんな事思って涙が出る/靴下もズボンも何もかもなくなってて/ベッドに微かなあの子の匂い残ってる」と。
「愛の巣」と言うくらいなのだからおそらくは同棲していたレベルで深く付き合っていたことが察せられる。それならば、「明日の歌」の「あなたに貰ったものどうしてこんなに大事に置いていたんだろう」「今日も「話そうよ」って言ってくる」ではないけれど、部屋のあちこちにあの子の影がちらつくのもしょうがない。
 しかし帰ってくるのはあたしただ一人。あの子のものは何一つ無くなっているのに、形のない、見えない「あの子の匂い」だけが残っていることは何という皮肉だろうか。ベッドに残っていると言う表現が生々しくて良いし、悲しくて眠りの世界に逃げた時に香ってくる匂いが、ここにはもう戻らない「あの子」のものなのは痛烈だ。まるで死体蹴りでもされているような気になる。
 そんなボコボコにされているあたしだが、それでも再会した時に気丈に振る舞っていたのは何故なのか。その理由が続くBメロに綴られている。「さみしいとか悲しいとかやっぱり言えなくて今日も/だけど夜を越えて逢いに来て欲しいけど/二人でしっかり決めた事だもの」──ここでの「今日も」は、Aメロ前半で描かれた再会のことなのだと思われる。本当はやはり、「さみしい」「悲しい」をあたしは感じていた。もういっそ、「夜を越えて逢いに来て欲しい」とさえ思っているのだ。あたしはやっぱり、あの子のことを今でも、喉から手が出る勢いで欲している。
 だが、その想いは「けど」と言う逆接でサビ前へと流れていく。あたしは張り裂けそうな想いを抱えながら、「二人でしっかり決めた事だもの」と歌う。自分が従うべきは自分本位の感情ではなく、別れる時にお互いが交わした約束なのだ、と自分に言い聞かせるように踏み止まっている。
 それは──どんなに会いたくても会いに行かないということ、寂しいや悲しいを伝えないこと。同様に、会いに来て欲しいとあの子にせがまないことだ。それは即ち、二人が別々の道を行き、別々の人生を自由に生きることを保証する、お互いに干渉し合わない、と言うことでもあろう。
 離れ離れで生きていく。二人で決めたそんな掟を守ることが、何よりもあの子への愛なのだ。自分の渇望をぐっと堪えられたあたしをよく頑張ったね、と思わず抱きしめてあげたくなるし、ついつい涙腺が緩んでしまう。まだ一番Bメロの段階でこれである。


■Loveであり、friend あるいは
 この曲を代表する特徴的なフレーズ「Loveなfriend」が登場するサビに移ろう。「あの子とあたしはLoveなfriend/離れてしまっても偶然出会っても/「久しぶり」って笑って言わなきゃ」はまさにAメロの再会を指しているように思う。
 Loveなfriend。かつて付き合っていて、でも今は別れていて、しかしそれで終わりではない。まるっきり赤の他人になれるほど薄情ではないし、かと言って踏み込んだ関係を続けられるわけでもない。二番で明らかになるが、元々はただの友達だった二人は、濃密であり限られた関係である「恋人」を経た今、やはり「ただの友達」にあっさりと戻れるわけがないのだ。それはインタビューで「絶対に前みたいな二人には戻れない」とaikoが言っていた通りである。
 微妙な位置関係の二人だが、Loveとfriendを経たからこそ偶然の再会にも「「久しぶり」って笑って言わなきゃ」と対応出来る。それは他人の振りをされるよりは幸せなことなのかも知れない。けれどある意味では酷なことでもある。恋人だった頃の二人を経て友人のままでいるのは、人によっては辛く感じるだろう。いっそきっぱり別れて無視を決め込まれた方が、気持ちもすっぱり無くせて幸せなのではないか……と感じる方もいるのではないか。と思うのだが、この辺は歌詞の解釈と言うより各個人の恋愛観の問題になってしまうので、この辺で終わっておこう。
 あの子とあたしはLoveなfriend。恋人を経た友達。だから、偶然出会っても笑わないといけない。本当は寂しい。悲しい。逢いに来て欲しい。逢いたい。好き。そんな気持ちが今も以前と同じくらいある。しかし、もうお互いを求め合わないことを二人で決めた。それを守ることが愛の表明になるのなら、いくらだって従う。──読み取るならば、こんな感じだろうか。
 だからこそ気持ちを隠して、再会した時のあたしは笑っていたのだろう。まさに強がりだ。もしかしたらその複雑な気持ちは全てあの子にもそれとなく伝わっているかも知れない。あの子もそれをわかっているからこそ、あたしの本当の気持ちに気付かない振りをしたのかも知れない。なんと切ない二人だろうか。わがままで健気で残酷で、しかし確かに優しい愛の形をここに見出せたような気がする。


■いつか咲き誇るひまわりに
 サビ後半は曲を象徴するひまわりが登場する。「あの子とあたしはLoveなfriend/さみしい時はもちろん朝まで付き合うよ/あたしはいつまでもあの子のひまわり」──おおーい、「さみしい」はお互い言わないんじゃないんかーい、と突っ込みたくなるが、ここら辺のニュアンスとしては、たまに電話やメールをしてくれたら付き合うよー、くらいの、まさに友達同士の範疇に留まる付き合いを示しているのだろう。
 サビの締めであたしは「いつまでもあの子のひまわり」であることを歌うわけだが、実際ひまわり(aiko曰く「その人にとっての太陽」)になっているかどうかは、現時点では怪しい。そう思いたいだけなのかも知れない。何せタイトルも「ひまわりに【なったら】」なのだ。言うなれば未完成のひまわりだ。
 しかし「いつまでも」「ひまわり」でありたいと願えたのは「恋人」を経たからこそだろう。恋人と言うものは、人によって程度はどうあれ一種の心の拠り所になる以上、軽視出来ない存在なのは言うまでもない。
 今はどうか知らない。けれどあの子にとってあたしが確かに大切な存在──「ひまわり」だったのなら、loveなfriendの今も、少し変わった形での「ひまわり」でいられるのかも知れない。あの子もそれを望んでいて欲しい。あくまで一リスナーとしてそう思う。



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