■何も知らないあの頃の
二番Aメロ前半こそ、「ひまわりになったら」のサビ中のサビだと思っている。これがあるのとないのとでは「ひまわりになったら」の印象は180度変わると言っても過言ではない。暴言を許してもらえるなら「ひまわりになったら」の90%がこの前半に詰まっている、と筆者はわりと本気で思っている。もし音楽番組で歌うようなことがあって、しかし二番が削られようもんなら、私は深い嘆きと悲しみに沈み一週間は床に伏してしまうだろう。
それくらいこのわずか4フレーズはこの曲において特に重要なのだ。あたしとあの子が本来どのような関係だったのか。その過去の自分達を、現在にいるあたしは一体どう感じているのか。物語に大きな深みを与えてくれる回想シーンであり、「ひまわりになったら」における切なさとやるせなさはここに起因していると私は強く感じている。
「恋愛感情なんてこれっぽっちもなくて/今の二人が嘘みたいね/ただの友達だったあの頃に/少しだけハナマルつけてあげよう」が問題の歌詞であるが、この一連は恋愛関係なく、各々が持つノスタルジーに直結して、一定の年齢に達した人は容易に泣いてしまうのではないかと思う。それはさておき、ここから読み取れるあたしとあの子の関係を整理したい。
一番から何となく読み取れたことではあるが、あの子とあたしは本来、単なる友達同士でしかなかった。恋愛によって結ばれた時に初めてわかるお互いの内面や事情、生じる不協和音など全く知らなかった、今のあたしにとっては遠い昔にいる自分達だ。そんな「ただの友達だったあの頃」にいる自分達に何故ハナマルをつけるのかを考えると、なかなかに苦しいものがある。
恋人同士になって、しかし別れてしまった今、あたしとあの子は「あの子のひまわり」と歌うものの、決して近しい関係ではない。たとえ電話などで会話することが出来ても、会いには行けない。疎遠になってしまった、と言ってもいい。
それなら、あの子との恋愛において得られた歓びや感動を差し引きしても、何も知らない「ただの友達」だった方がずっとずっと近しくお互いの傍にいられて、なおかつ大切な存在になっていたのではないか。簡単に言うと、「あの子」を実質失っている今よりも、そっちの方がマシだったのではないか。それこそ、ハナマルをつけたくなるくらいには──と言うことである。
恋心を抱いて、それを相手に告白してしまい、一線を越えた関係になってしまったがゆえに齎された残酷な結末である。と言って、だったら、恋心を秘密にしたまま、ずっと何でもないフリをしてただの友達の関係を続ける……というのも苦しい。相手にパートナーが出来たと話されれば、その想いは成就されず死ぬ運命となるからだ(実にありふれた結末ではある)
告白するか。友達のままでいるか。どちらに進むか、究極の選択だった。しかし選び取る時点で未来は見えないし、自分達の行く先は必ずハッピーエンドだと信じていた若さがあたしにはあるような気がする。何より想いをひた隠しにして友達のままを続ければ、きっとあたしの方がまいってしまっていただろう。楽になれて、かつ成就する可能性に賭けたあたしの気持ちはわかる。全ては結果論でしかないのだ。恋を生かす方向を選んだあたしは決して悪くない。
ただ、齎された結末はあまりにも切ない。と同時に、これ以上ない青春の恋の終わりでもある。何も知らないただの友達だった二人は、これからやってくる未来もまた知らずに無邪気なままでいて、あたしにとってはただただ愛おしく見えていたであろう。「ハナマルつけてあげよう」とあたしが思うのは、自分への皮肉と言うよりも、二人が本当にただ愛しく、素晴らしく見えていた、そして、ほんのちょっとの悲しさ、そして切なさを抱いたからだと思いたい。自分を客観視出来るようになったあたしが、あの頃よりも確実に「大人」になっているのを示す切ない描写としても、やはりこの段落は非常に秀逸である。
■あの子はまだいる
曲調は明るいものの、次のAメロ後半がある意味ではこの曲の中で一番暗い段落のような気がする。前半の内容も受けつつ読み進めればなおのこと辛いものがある。
「買い物に行ったら知らないうちに/あの子に似合うシャツ探してる/ふとした時に気付く虚しさとため息/誰か早く止めてよ」が内容であるが、こういった経験をしたことのあるリスナーは非常に多いのではないだろうか。恋愛だけでなく友達関係や家族でもあり得る話だ。
あたしの中にあの子はまだ「いる」。しかし実際には「いない」。似合うシャツを探しても、好きな料理を作っても、あの子はもう、あたしの前にはいない。会いにも行けない。「ああそうか、もういないんだ」と、不在を痛感して去来する虚しさと生み出されるため息が、ひょっとしたらこの世で最も悲しく辛いことなのかも知れない。最後の「早く止めてよ」は短いフレーズながら、絞り出された涙の一滴のようで強く私達の心に沁み渡る。aikoの歌い方は新旧どちらのバージョンでも苦しそうで、自然と涙を誘うのである。
■なくてはならない人
二番Bメロは回想シーンが少し盛り込まれ、あたしにとってあの子はどういった存在なのか言及される。「あの子の前で死ぬ程泣いた/それが恥ずかしくなかった」のはどれくらい前のことを指しているのか。ただの友達だった頃か、それとも恋人になった頃か。いずれか定かではないものの、誰かの前で大泣き出来て、それを恥じていないと言うことは、それだけその人に心を許していると言うことにもならないだろうか。もっと言えば、その人の前でなら、赤裸々に泣けてしまうほどありのままを曝け出した自分自身でもいられると言うことだ。そういった人は恋愛友情関係なく、広く「心のよりどころ」となって、それこそかけがえのない存在となることは想像に難くない。
だからこそこう歌うのだ。「だからそうよあの子はあたしにとって/なくてはならないものね」と。「なくてはならない」存在。まさに太陽のような、ひまわりのような人。それくらいの存在と、しかし離れることになった。別れを選ぶことになった。それは──作者のaiko側の話だが、食も満足に出来ない状態になってしまってもしょうがない。
あの子の存在が、今でも自分の中にいる。虚しさとため息を「早く止めてよ」と苦しげに歌いながらも、改めてその存在を想い、「なくてはならないものね」とも歌う。完全に忘れることは出来ない。想い続けることもやめられない。恋人同士を経て、ただの友達には戻れなくなったあの子とあたしはお互いにどういう存在であればいいのか。そしてもう一つ、あたしは、「なくてはならないあの子」を、恋人でも友達でもなく、最終的にどういった存在に定めればいいのだろうか。