■私小説を超えて
 それはそれでいいのだが、少し困ってしまったことがある。私がaikoファンである故に、aikoが大好きな故に、そしてaikoと言う人を尊重する故に、「君の隣」の歌詞を「作品」として読むことが出来なくなってしまったのである。
 インタビューに触れた読者の方もそうだと思いたいのだが、それが良い悪いと言うわけではないけれど、「君の隣」はあまりにもaiko本人が剥き出しになっている曲ではないだろうか? aiko自身も「今まではライブを通して抱いた感情を歌う曲って、ちょっと恥ずかしい気持ちがあったから書くのを躊躇していた」(別冊カドカワより)と言っているのだし、これまでの曲、すなわち「作品」とは一味違うことは明白である。
 これまでの曲は「あたし」と「あなた」で一応の物語が形成されていた。aikoと言う作家と曲──歌詞と言う文学作品は、物語を読み取れるだけ、あるいは何らかの意味や示唆を込められるだけの適切な距離を取っていたし、私達はそれを私達の感性や経験や知識で読解したり解釈したり考察したりと、様々に曲の世界を膨らませ、その先でaikoと言う作家の人間性にそれぞれのアプローチで肉薄することが出来た。
 ところが「君の隣」はそういうわけにはいかなくなってしまった。勿論、aikoの言葉に触れる前ならば好き勝手に考察なり読解なり出来たと思うし、それも研究の仕方の一つとして間違ってはいないと思う。でも私はaikoと言う人を知りたくて、少しでも近づきたくて、自分なりの言葉で彼女への好きを表現したくてこの歌詞研究を地味に続けている。インタビューやライナーノーツを参照せずに歌詞に当たることはしたくないと思っているし、そうしないならばこの研究をやっている意味もない。なので別に今回のやり方も間違っているとは思っていない。ただ、そうした結果この「君の隣」はあまりにもaiko側からのメッセージであり、心情の吐露であることを認めざるを得なくなってしまったのだ。少なくともフィクションの小説ではなく、適切な言葉で言えば私小説かエッセイ──いや、それらを飛び越えて、もっと言えばaikoの心そのものであるのだ。「君の隣」は、aikoファンからすればつまり、そんなとんでもない曲だったのだ。
 とは言えやると決めたからには、そんな曲であろうと読んでいくしかない。ただ、歌詞を読むにあたって、いつもとちょっと違う気持ちで臨むこととなった。言ってみれば些細なことなのだが、まあ、なんというか、ちょっと恥ずかしい。こんなに赤裸々なハートに触れてしまっていいのかしらん? と言う具合である。まあaiko自身も「照れくさくて今まで書けなかった」と言っているのだからお互い様だろう。

■ケとしての雨、光射すハレ
「君の隣」の歌詞をざっと俯瞰すると、この曲に「あたし」と言う一人称が出てこないことに気が付くだろう。それがものすごく珍しいというわけでもないが、物語を託す存在である「あたし」の不在により、aikoからあまり離れてはいない──aikoではない誰か、第三者の物語のように読むことがほんの少し難しくなる。なので先の段落で触れたように、これは作者aikoと、不特定多数を指す「君」だと思って読むのがいいだろう(この「あたし」の不在にaikoの何らかの意図があるかどうか、それは不明である)
 そんなわけで一人称はないが、二人称はタイトルにもあるように「君」だ。これ自体は他にもいろいろある。「アンドロメダ」「ウミウサギ」「ジェット」「キョウモハレ」「赤い靴」等々だ。一人称「僕」における二人称であるケースが多いが、「あなた」よりも近しさと柔らかさを感じ、気持ちを表すのにより素直になれる感じが個人的にはしている。aikoの二人称における「僕」なのかも知れない(ややこしいが)

 歌詞の出だしは少し不穏だ。「真っ暗真っ暗たまらぬ雨と 眠れぬここに何度も刺す雷悲しい/君が遠くで泣いていないか 今夜は胸が締め付けられる程苦しい」──ライブでしか会えないファンの皆と自分。距離、空間、そんな圧倒的な隔たりを前に、自分は何も出来ない。ただ心配しか出来ない。気は塞いでしまうし、不安で眠れぬ自分を囲い込むように雷も落ちてくる。同様に、aikoの具合が悪くなったり、落ち込んでいることがあると「君」達も不安であるし、苦しくなる。SNSでメッセージを送っても、それが力になると知っていても、何かもっと具体的な力になりたいと誰しもが思うだろう。
「雨」が描かれているし、「雷」まで落ちているし(しかも「刺す」と言うやや凶暴な表現)、不安や苦しさを掻き立て想像させる二連ではあるが、後々のことを考えてみるとそこまで悲愴でもなく、単純に「ライブのない日々」=「日常」のことを表してる箇所なのだと思う。ハレとケで言うところの「ケ」の描写だ。ライブのない日があくまで私達の生きる日常であって、ライブのある日こそが非日常だ。

 Bメロに移る。「枯れずに咲いて 自惚れ愛して泣き濡れ刻もう」と、どんな風に愛し合い、どんな風に君と語り手が過ごしていくか──やがて来る晴れ間へ向かう雨の中、そんな夢や希望を彼女は歌いあげていく。「螺旋描いて 渦に潜って二人になれたら」はオリコンニュースにて「ライブの最中にふと目をつぶると、そういうイメージ(螺旋描いて 渦に潜って二人になれたら)がワッと沸きあがってくるんですよ。たくさんの人の前で歌ってるんだけど、気持ちが1対1になる瞬間がすごくあるというか」「好きな人と一緒に海の中を回転しながら潜っていく映像がパッと見えたんですよね。それを言葉にするとどうなるのかなと思って」と語られていたように、まさに彼女の言う「一対一」の概念のイメージが文字化されたものとなる。私自身にも、本当に二人で潜っていって、向き合って、深い海の果てで重なり合うような、そんなイメージがある。
 一対一になりたい。この気持ちを届けたい。想いを胸に彼女はステージへと向かう。「いつだって君が好きだと小さく呟けば/傷跡も消えて行くの もう痛くない」と心境が紡がれていく。「君が好きだ」──これは魔法の言葉だ。「もう痛くない」とあるようにいろんなネガティブが、弱気が、緊張がすっと和らいでいくのだろう。「傷跡」はこれまでのいろんな失敗や後悔だろうか。

 特筆すべきは次である。「雨が止み光射すあの瞬間に/ねぇ 隣で歌わせて」と歌われるこの二連、「雨」は冒頭に書かれた「真っ暗真っ暗たまらぬ雨」のことを指していて、冒頭との対比を利かせている。そして「光射すあの瞬間」は読んで字の如く、その雨が止んで晴れ間が射す時なのだが、「雨」を日常として読み、「光射すあの瞬間」がライブと言う瞬間でしかない非日常を指すならば、このフレーズはまさに日常から非日常へ変わる瞬間──ケから「光射す」の文字通りハレ(晴れ)へ変わる瞬間、ライブが始まるあの胸が高鳴る瞬間のメタファーであったと言うことだ。この短さでこの巧妙かつ鮮やかで軽やかな描き方、まさに天才と言わずして何と言おう。
 ライブのことを表しているからこそ、その瞬間に「ねぇ 隣で歌わせて」と願うのだ。それが歌い手であるaikoの究極の理想であって切なる願いであることを私達は十分に理解している。楽曲で最も盛り上がるサビの最後にこの言葉を持ってくるのだから、やっぱりこれが彼女の一番の幸せであるのだと改めてしみじみ感じ、その愛おしさにどこかほろりと泣けてくるのである。



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