■好きな人の輝き、想う煌き
 切り抜きで所有していた為、雑誌名が明記出来るものが少ないことは予めご了承いただきたい。発売当時のインタビューでは、aikoはキラキラを「元気だけど、派手だけど、でも、せつないっていう音にしたかったんです。あと、ひとりで聴いたときに「がんばろう!」と思う曲にしたかった」と話している。この曲はドラマ「がんばっていきまっしょい」の主題歌でもあったので、ドラマのタイトルとリンクしていると言えるだろうか。(なお筆者はこのドラマ未見である)続いて曲のテーマについては「尊敬、あこがれ、好きという気持ち」があると書かれ、aikoはこう話している。
「やっぱり好きな人ってあこがれなんで、私はすごい輝いて見えるんですよ。尊敬してるし、あこがれてるし、キラキラしてる。そして、その人のことを純粋に好きという気持ちだけで見てる自分だったり、まっすぐなときっていうのも絶対輝いてると思って。で、キラキラ」とタイトルの由来も明かしている。憧れの存在の輝きだけでなく、その存在を慕う自分の輝きも意味しているのだ。
 続いてザ・テレビジョンのインタビューを見てみる。「昔から、好きな人=尊敬するあこがれの人っていう感じだったんですよ。キラキラした存在、というか」とここでもキラキラが何を意味するものか触れている。「だから無条件に「好き!」って思っていられたんやけど」と続き、更にこう続く。
「年を重ねて大人になるにつれて、好きになるのにも理由が必要になってる気がして。でも、それはおかしいと思ったんですね。好きは好き、それだけでいいやん、って。その気持ちを私は大事にしたいと思って書いたんです」
 この言葉は「あなたを好きという事だけで あたしは変わった」のフレーズを想起させる。「寂しいときはヘッドホンで音楽を聴いてるんですよ。でも、そういう寂しかったり、悲しかったりすることも、全部前を向くための準備なんだと思うから。もっと前を向けるために書いた曲でもあるんですよね」と曲に込められた意味を話している。
 これらのインタビューに触れていくうち、私の中のキラキラ解釈にかなり補正が掛けられていった。影響されやすい性格なのは自覚しているがここまでだったか、と思いつつも、キラキラの「あたし」に、およびキラキラ自体の好感度がぐんと上がったのは事実である。この「あたし」は生者であり、憧れ、尊敬する相手である「あなた」をただひたすらに、まっすぐに想っている。そう言う曲なんだなと思うと健気な「あたし」が実に愛しく思えてきた。ともすると「死」を匂わせる表現も、aikoにはよく見受けられる過剰表現ではないかと考えるようになったのである。(「ラジオ」の「死にたくなるくらいだったの」や「いつもあたしは」の「あたしは死んでしまうのと」や「風招き」の「心細くて死にそうな」等)もともとキラキラは好きな曲だったが、より一層素直に「いい曲だな」と思ったのである。

■二番の脆さ――花風と比較して
「あたし」が生きている存在、私達と近しいものであるとしみじみ感じる理由にはもう一つあり、何かと言うと二番の歌詞全体のことである。生きているが故の生々しさや脆さをここに見出すことが出来ると私は感じており、これは前年の二〇〇四年に出された「花風」には見られない部分でもあると思う。「花風」については以前述べたのでそちらを確認していただくことにするが、「花風」はいつか相手と再会出来る、それこそ生まれ変わっても当然「あなた」ともう一度めぐり逢える、その訪れを確信している強い一曲で、ほとんど弱さを感じさせない(あっても克服し、受け入れている強さがある)のであるが、さて、それなら「キラキラ」はどうであろうか。
 その二番を見ていくと、しょっぱなから躓いている。一番の出だしが「待ってるねいつまでも」Bメロで「あたしはこうしてずっとここを離れずにいるよ」サビで「風になってでもあなたを待ってる」と一番のみ見れば花風に匹敵する「待つ強さ」を感じると言うのに、いきなり「明日は来るのかな?」で始まる。不安爆発である。友達はそんなあたしを見て「きっとちゃんとやって来るよ」と励まし、幸運を呼ぶ四つ葉(のクローバー)を贈る。けれどそんな友達の励ましを受けてもあたしは「想い悩み溢れる程 眠れぬ夜迎えてばかり」らしいし、外は夏の晴天を邪魔するように雨が降ったりもしている。とにかく二番は一番、大サビに比べれば随分不安要素てんこ盛り、と言うか二番がこの曲の全ての不安要素を請け負っていると言っても間違いはない。「陽と陰」のフレーズを用いて言うならば、「陰の心」だろうか。
 キラキラが収録されているアルバム「彼女」発売時のインタビューに全曲セルフライナーノーツがあり、そのキラキラの項目を当たると、キラキラ発表時から少し時が経っているから別口の観点でのコメントになっているのか、「こんなに許せる気持ちが書けるなんて」とあるのが興味深い。「昔の私だったら想像も出来てないし、もっと泣いて明け暮れてた」と続く。もしかすると、(こんなにも自分を待たせている相手を)「許せる気持ち」が一番と大サビで描かれていて、aikoの言う「泣いて明け暮れてた」「昔の私」が描かれているのが、この二番そのものであるのかも知れない。

■あなたを好きという事
 二番は弱さの表れた一篇であるが、弱さだけに終わっているのではない。そこから立ち上がろうとする、弱さの中の強さを感じる一篇でもある。その最たるものが、先にも挙げたサビの前のフレーズである「あなたを好きという事だけで あたしは変わった」である。
 二〇一四年mina十二月号ではキラキラのこのフレーズを取り上げており、aikoは「好きな人を思うと、女のコは変わりますよね」とコメントしている。それは髪型だとかファッションだとか聴いている音楽だとか、目に見えるものだけでは決してない。憧れの誰かを想う心、いや、憧れの誰かの存在が世界全体を変えてしまえるものでもあると「キラキラ」を読んでいて思ったのである。
 直前までのフレーズは不安に押し潰されそうなものであるのに、このフレーズが置かれたことでネガティブなそれらを覆し始めるのである。それこそインタビューの「好きは好き、それだけでいいやん」とのaikoの言葉通り、相手への想いや愛だけで全てを変えてしまう、抗ってしまえるのである。あなたはまだ帰ってこないけど、この世界で待ち続けよう、そう思える強さを「あたし」はそこで初めて自覚し、手にすることになるのだ。

■ギリギリの想い・生か死か
 勿論すぐに強くなるわけではない。続くサビは未だ残る不安とあたしが拮抗しているような描写である。死を感じさせるフレーズとして「触れてしまったら 心臓止まるかもと」と言うものも置かれていて、どうにもこうにもやはり穏やかではない。
 このフレーズ、少し引っ掛かるところなので少々筆を割いておく。「触れてしまったら」とは、何に触れてしまったら、なんだろう。「流した涙」なのか、「流した涙」が冷やした「指先」なのか、それか、指先に残る「あなたの唇の熱」なのか。どれを指すのか、実を言うと発売から九年経つのに私にははっきりわからない。個人的には「流した涙」なのがいいなあと思うけれど、おそらくは「あなたの唇の熱」が最も適当かと思われる。
 それに触れたら「心臓止まるかも」と「あたし」は随分感極まって考えている。「あなた」が戻ってきて、残された熱ではなく、あなたの本当の唇の熱に触れた時、待ちに待ち過ぎた「あたし」は昇天してしまう。それくらい「あなた」の帰りを待ち侘びている。そんな「あたし」の、生と死が隣り合わせの極端な想いの丈を表しているものだと思う。一番と大サビの、死してなお待ち続ける心を表す「風になってでもあなたを待ってる」に対応したフレーズと言えるだろう。

■ひたむきに光を探すすべての人へ
 二番は全体的に「キラキラ」の弱さを請け負う部分であり、同時に、相手への想いで奮起し、不安に立ち向かえる強さを得たことを描く部分であるらしい。
 ところで、この二番を聴いた時に、もし一番と大サビしか聴いたことがない人がいれば驚くかも知れない。もっとこの「キラキラ」は、強い女の子の曲だと思っていたけど、そうではなかったと考えを改めるかも知れない。例えば昔の童謡や唱歌などで、今まで知らなかった歌詞を知ることで印象が変わった、と言う曲が読者の方々にもしかするといくつかあったりするかも知れないが、キラキラもそう言った曲に当たるのではないだろうか。「キラキラ」の「あたし」は全ての面で強い女の子ではない。本当はこんな風に不安になったりしていたんだ、ああなるまで、こんなに辛い日々を過ごしていたんだとわかった時、「あたし」もリスナーの女性達と同じなのだ、私達と同じ人間なのだ、と親近感を抱くだろう。もっと普遍的に言うなら、この二番は「キラキラ」がより共感を得るのに必要な人間くささ、脆さの表れた一篇なのである。
 もしかすると、先述したインタビューにあったように、二番は一番や大サビより過去の時間軸のことを描いているのかも知れない。この苦しい、不安と恐れに挫けそうな日々を乗り越えてこそ、待ち続ける一番と大サビの「あたし」がいる。そう仮定することに大きな間違いはないだろう。
 一番と大サビだけ聴けば、それこそ「花風」のような全てを超越した凛とした強さのある「あたし」だけの唄であろうが、二番があることで人間くささが加味され、より一層「あたし」に共感出来るのではないだろうか。aikoの曲はよく二番がいい、と言う評判があり、二番は後から加筆された部分であることについて以前「Tour De aiko」の副管理人・れんげさんと話をしたこともあるが、aikoが「ひとりで聴いたときに「がんばろう!」と思う曲にしたかった」と話していたように、遠距離恋愛や辛い恋愛で悩んでいたり、恋愛でなくとも、何かに苦労していたり、明日が見えなくなっている人達を励ます意味でこの二番は綴られたのかも知れない。サビを締めくくる「ひたむきに光を探してた」のワンフレーズは、きっと誰しもに当てはまるフレーズなのだから。

■待つことは愛すること 生きることは愛すること
 改めて一番を見ていきたい。サビの「羽が生えた事も 深爪した事も シルバーリングが黒くなった事」は一体何を意味しているのか、人にとってはどうでもいいようなことのように聞こえる。そんなぴんとこないものの為に、かえって印象的なフレーズとして聞こえるのだが、実際そう深い意味はないように思われる。日常の些細なことや驚くべきこと、何もかも全て「帰ってきたら話すね」と今は会えない「あなた」に届けることを、「あたし」はここで約束しているのである。
 aikoはこう言っていた。「寂しかったり、悲しかったりすることも、全部前を向くための準備なんだと思うから」と。前を向いた先、未来の自分の目の前にいるのは、きっと憧れの「あなた」だろう。寂しいことも苦しいことも、悲しいことも悩み過ごした日々も、全て「あなた」と言う存在にいつか届けられる。つまり、日常、生きることの全てがあなたへ向いているのだ。
 それら全てを統括する代表的行為を一つ選ぶなら、このキラキラの最初のフレーズでもある、「待つ」という行動である。待つこととは即ち、その場にいない相手を愛することとほとんど同義なのである。
 待つことこそ愛であり、生きることもまた愛である。そのひたむきさは悲壮でもある。それこそ、aikoの言う「元気だけど切ない」そのものだ。あなたが帰ってくる保証は、リスナーである私達にも取れないのである。
 それでも歌の中に込められた「あたし」のその姿は私達の心を打つし、同じような恋愛を今まさに進行している人は「頑張ろう」と勇気を抱くことが出来る。苦しみもがきながらも待つことを選び、信じ続ける「あたし」はとても眩く、尊く見える。それこそこの曲のタイトルのように「キラキラ」している輝きそのものなのだ。aiko自身もこう言っていた。「その人のことを純粋に好きという気持ちだけで見てる自分だったり、まっすぐなときっていうのも絶対輝いてると思って」
 彼女は死して、自分の存在が別のものになってもなおも待ち続けることを宣言している。最初から死んでいる存在ならばここまで熱い煌きを見せることはないだろう。弱さを乗り越え――あるいは同時に持ち続けながら、それでも相手を信じ続け待ち続ける「あたし」の輝きを、いつか自分も灯せたら――いいや、自分の中にもその輝きはあるはずだ。だから、明日も頑張ろう。そんな風に思わせてくれる。「キラキラ」は恋愛だけでなく、ありとあらゆる人に向けられた応援歌なのかも知れない。

(了)

back

歌詞研究トップへモドル