■一瞬を焼き付けて
 前項で整理した考えを持ちつつ、歌詞を読んでいく。木星はどのような世界を描き出しているのだろうか。
 おどろおどろしいイントロから始まり、ひっそりと穏やかに言葉は歌い出されていく。「あなたに気持ちを伝える為に/全て伝わらない歯がゆさに」とあるが、ここで思い出すのは「戻れない明日」のフレーズ、「あたしはあなたじゃないから全てを同じように感じられないからこそ」であろう。愛し合う二人とは言っても結局は他人で、どこまで行っても違う人間同士である。百パーセント理解出来ないし、同じ気持ちになることも出来ない。けれど、それでも一緒にいたいし、好きでいたいし、好いている。それが何よりも尊いし、それこそが恋愛(に留まらない人と人の繋がり)の真理なのだろう。

 ではその「全て伝わらない歯がゆさ」の前に出来ることは何なのだろう。それは続くフレーズに表されている。「あたしはあなたの前で/沢山泣いて沢山笑うわ」、これに尽きる。こうするしかないだろう。自分の気持ちを出来るだけありのままにさらけ出し、少しでも伝えられることを増やそうとする。多分泣く・笑うだけでなく怒ったりもするだろうし、はしゃいだりもするだろうし、寂しがったりもするだろう。「あたし」は人間と人間の理解の限界を冷静に、どこか悲しく感じながらも、それにどこまでも抗おうとする。
 彼女はやはり達観しきっている。「2人の時間は宇宙の中で言うチリの様なものかもしれない/時折見せるずるい仕草も ワンシーンの1秒かもしれない」と、無限に広がる宇宙を前に自分達の存在も時間も、とてつもなくちっぽけなものであるとわかっている。ここで登場する「宇宙」だが、次曲にしてアルバムを締めくくる「心に乙女」の出だしにも出てくるし、もっと言うと前曲である「それだけ」に登場する、おそらくは太陽の表現である「遥か彼方の赤い光」の「遥か彼方」も宇宙的広がりを感じさせる。秋そばは最後三曲によってグローバルを通り越して、意外とユニバースな奥行きを生み出していると言えよう。

 そんな宇宙と言う舞台は、気の遠くなりそうな天文学的数字がごろごろしている世界である。それらの年数の前には人間の時間など本当にチリのようなものでしかないし、ワンシーンの1秒すらあるかどうか怪しい。とにかくあたしにしろあなたにしろ、とてつもなくちっぽけなものでしかないのだ。けれどそれ故に「沢山泣いて沢山笑う」がより一層尊いものとなる。その一瞬一瞬を精一杯焼き付けようとしている、切なく狂おしい渇望の迸りを想うと、どうにも「死」には程遠いのではないか、とやはり思うのだ。勿論それくらいがむしゃらに生き抜いた先、結果としての「死」は見えるのだけど、少なくとも何かを手放したり、逃げたり絶望したりと言った消極的な死のイメージとは遠い。「あなたの前で沢山泣いて沢山笑う」と言っているくらいなのだから、むしろ「一つも手放さない」くらいの気持ちはあるだろう。
 ここでふと思い出すのが、同じく秋そばに収録されている「海の終わり」だ。「いつかは離れてしまう」のだから「仲直りしよう」と歌うあの曲も世界を広い視野でとらえているし、「木星」と同じように「限りある時間のちっぽけさ」(加えて、いつか必ず終焉を迎える抗えない理)の中で共にいること、その掛け替えのなさを歌っている。「秋 そばにいるよ」はそのタイトルの通り、厳しい夏と冬に挟まれ、すぐにその気配を薄くしていく秋と言う儚い季節に、それぞれの人生、恋人達の恋愛を見立て、それでも傍にいること、今を大事にすること、恋をすること、愛し続けることを表現した作品集なのかも知れない。

■木星と言う来世
 閑話休題。曲名である「木星」が登場する次のフレーズで、1番は閉じていく。「じゃあね木星に着いたらまた2人を始めよう」と、なんとも幻想的で意味の取りづらいフレーズではあるが、曲名のこともあってこの曲の代表的なフレーズであると言えよう。
 最初、aikoのインタビューの影響もあって「木星」と言うのは「死」のメタファーか何かなのかと考えていた。と言うのも、木星と言う惑星は質量が足りなかった故に太陽のような恒星になれなかった天体であることが、比較的よく知られている知識だからである。活発に活動し、地球に恵みを与えている太陽は言うまでもなく「生」と見ることが出来、そうはなれなかった木星を「死」と見ることはそうおかしくない。
 とは言えaiko自身「なんで木星が出てきたんかなあ」とか言っちゃってるくらいなので単に私の深読みでしかないのだが(おそらく「宇宙」を出したことで引き出されてきた語彙か? ちなみに地球・木星間はとてつもな~く離れている)ここまでを踏まえて考えるとむしろ、平安の昔の歌人ではないが「来世」と見た方がより適切なのかも知れない。木星に行くことは「共に果てる」こと、「共に生き抜くこと」(婉曲的に「死」ではある)であって、木星に着いて二人が再び始まることは、来世で──生まれ変わってもまた恋をしよう、ということだ。
 沢山泣いて沢山笑っても全て伝わらない。二人の時間も存在も宇宙的に見たらチリでしかない。そんな達観と諦観のもと、あたしはそう考えた──と解釈すると、厭世的で少し悲しげではある。けれども正直、古の歌人達が詠んできた恋人達にも言えることなのだが、「来世でも一緒になろう」と言うのは普通に考えて果てしなく強い感情と約束である。aikoは常に今に焦点を置き尊重し、全てを出し切ろうとするアーティストであると──少なくとも私は考えている為、明日とか未来とかはあっても「次の人生」にまで言及しているのはそう多くないのでは、と思う。ぱっと思いつくのは「生まれ変わってもあなたを見つける」とこれもまた強く、絶対の自信を持って歌っている「花風」くらいだ。「木星」を次の世、人生、来世と解釈するなら、ここにはリスナーの想定を何段も軽く飛び越えていく情念が込められているのではないだろうか。



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